365日のシンプルライフ
「なぜ不幸なのかを考えるところが必要だ」(ペトリ)
彼女に振られた主人公・ペトリは一念発起。モノに囲まれた自分の人生を見直し、幸せとはなにかを考え直すため実験を開始する。実験のルールは4つ。
1.自分の持ちモノを全て倉庫に預ける
2.1日に1個だけ倉庫から持ってくる
3.1年間、続ける
4.1年間。何も買わない
ヒトとモノの在り方を考える実験が始まる。ちなみにコレ、ドキュメンタリーであり監督のペトリ自身が実際に行った実験の映像なのだ。
ドキュメンタリー映画というのは大体監督のドギツイ主義・主張で彩られていて苦手なのだが、本作は個人的には好印象。強い主張を展開する映画ではないからだろう。「生活を見直してみましょう。そのためにバカな実験をしてみました」というスタンスだからであろう。それこそ映画冒頭は全裸のペトリが雪の積もった夜中にコートを取りに倉庫へ走る。第1日目の夜で始まる。まったくもってバカである。ところで、この際にペトリはゴミ箱から拾った新聞で自分の前と後ろを隠すのだが、日本人の感覚的には後ろを隠す必要はないように思う。と、どうでもいい文化の違いを感じた。
意外にもドタバタ劇は序盤で終わり、ペトリの生活は安定してくる。少なくともペトリにとって、生活に必要なモノは50−60個程度であったらしい。エンディングでは「生活に必要なモノは100個」とも言っている。服とかは1枚1個と数えているようなのでこれは現代人にとっては驚くべきことではないだろうか。
経済的な発展の中で、僕たちはモノの多さを豊かさだと思いこんできたところがある。しかし、その一方でモノに踊らされているのも事実だ。改めて家の中を見れば、何年も触った覚えがないものがご丁寧においてあったりする。
自分が必要なモノを、自分の納得できる形で持つ。そんな一見当たり前のことが、案外僕たちはできていないのかもしれない。そして、それは案外幸せとは違うことなのかもしれない。映画のようにはいかないが、時には自分の持ち物を見直す時間が持てたらいいなと思った。
探偵少女アリサの事件簿 溝ノ口より愛を込めて 東川篤哉
小僧の神様 志賀直哉
めがね
主人公はめがねをかねた女性。どこかの島へやってくる。島で出迎えたのはめがねの男性。彼は彼女に「この島に居る才能がある」という。めがねのおばあちゃん、めがねの女性教師があらわれ、観光地も何もない島での「たそがれる」生活が始まる。
島での暮らしはゆっくりのんびりとしている。この映画にはこれといって敵も、乗り越えるべき試練もない。緊張感の走るシーンはない。ただ、島でのんきに暮らすだけだ。終始聞こえる波の音が心地よい。
「なんだこれは」と思う一方で、ぼくは「そうか。こんなものを描いても映画なのだ」と気づいた。映画はドキドキやワクワクを伝えるだけのものではない。もっと自由に表現していいわけである。「のんびり」ということを表現してもいいではないか。
今、ちょうどこんな映画が必要なときかもしれない。COVID-19の影響でずいぶんと世の中ピリピリとしてきた。もちろん当然のことだし、ピリピリしないと行けない時期ではあるのだが、人間はピリピリし続けていては持たない。そう感じたら、この映画を観て1時間半ほどのんびりしてはいかがだろうか。
南極料理人
「やりたい仕事が、ここでしか出来ないだけなんだけどなあ」(モトさん)
西村淳原作のエッセイを映画化したもの。第38次南極調査隊の日常を描く。男ばかりの8人組。基地は他の基地から遠く離れた南極の孤島・ドームふじ基地。極寒の寒さでは細菌もウイルスも生息しいない。ついでにペンギンもアザラシもいない。加えて富士山よりも高い標高では、お湯も85℃で沸騰してしまう。過酷極まる環境での日々が始まる。
映画の中では、まるで男子寮のような、男どもの馬鹿馬鹿しい生活が描かれる。その一方、逃げ場のない孤独のなかで少しづつ個人の日常が侵されいく。平穏な日常の中で描かれるほんの少しのホラーがとてもピリピリしておもしろい感覚だ。
人間は知恵と技術で、どんなところにでも日常を築くことができるようだ。そして、それが人間の一番の能力なのかもしれない。そうやって、人間は日常をどんどん拡大して生きてきたのだろう。フロンティアの生活。そんなものを垣間見た映画であった。
ディエンビエンフー 西島大介
ベトナム戦争のまっただなか。従軍カメラマンとしてアメリカ軍に同行するヒカルは、日系3世のアメリカ人。凄惨な戦争のなか、米軍によるレイプ現場に遭遇し、命をおとしかけるも、謎のベトナム人少女プランセス(お姫さま)に助けられたちまち2人は恋に落ちる。しかし、戦争のさなか、2人はお互いに知り合うこともなく、泥沼の時代へと突き進んでいく。
KIndle unlimitedで遭遇した漫画。かわいらしいキャラクターとは裏腹にエログロなんでもありのストーリー。こういう漫画はときどき出てくるものだが、大体はファンタジー設定であることが多いようにおもう。その意味で、ベトナム戦争という歴史上の舞台を用意したこの作品はおもしろい。
ただし、登場人物や作中の出来事は多くがファンタジーである。ベトナム戦争の流れとその戦争の背景はおおむね史実なんだろうか(歴史に疎いのでよくわからない)。ただ、本作の中ではベトナム戦争の狂気が一段と強く描かれる。
ぼくの世代は戦争を知らない。ベトナム戦争も正直よくは知らない。ただ、その裏側にアメリカの闇(PTSDや麻薬中毒の蔓延)とか、ヒッピー文化があったこととかはなんとなく知っている(正しいのかはよくわからない。いい加減ですまない)。
この漫画は、「なんとなくベトナム戦争を知る」のにはいいのかもしれない。米軍は物量と優れた軍事兵器でベトナムを蹂躙するベトナム軍(ベトコン)のみならず民間人も犠牲になった。ベトコン側は勝利は無理だが、戦争を泥沼化させることが十分勝利に値すると考え、考えゲリラ戦をはってじわじわと米軍を削り続けた。中国からの支配に1000年抗い、フランスからの支配に100年抗ったベトナムの抵抗力は並ではなかった。
一方、先進国からすればこの戦争はまさに資本主義と社会主義の代理戦争であった。どちらがより優れた思想なのか。その誇りがベトナム戦争の勝敗にかかっていた。つまり先進国は感情的になっていた。「割に合わない」では終われない戦争になっていたわけだ。
この辺がぼくがこの作品がから感じたことである。個人的には作者の西島さんはこれからもっと伸びてくるんじゃないかと思う。「好きなことを漫画にしている」というより漫画を描くためにすごく勉強している感じが作中にみてとれるし、作中にいろんな漫画・アニメのパロディを散りばめていてもともとのオタク的な気質が伺い知れる。どこかで弾けるとすんごい作品を生み出してくれるような気がする。それを待ちながら、ぼくはくだらない日々を生きていこうと思う。
時をかける少女 大林宣彦
最近だと「時かけ」といえば細田守監督のアニメ映画だけど、その前にはこの映画があった。大林監督の尾道三部作の1つ。実写版「時をかける少女」だ。
改めて見ると、時代の制約のの中で大林監督が実にチャレンジングな映画を作っていることがわかる。
まだコンピュータ・グラフィックスの無かった時代。フィルムと撮影の技術を巧みにいかして登場人物の心を絵にする技に、実に大林監督はチャレンジしている。
すごいなと思ったのは主人公・佐山和子がタイムリープの力を無意識に発生させるシーン。自転車に乗るおじさんがコマ送りのように観察される。もちろんフィルムの中を抜いているだけなのだが、「なんで?」という印象の強さが際立つ。パッと原因に行き着けない物語の構成が上手なのだろう。主人公の心の動きを映像で表現したようにみえてしまう、見事なトリックである。
このトリックを受けて、細田監督のアニメでは彼女が「タイムリープっていうのよ。思春期の女の子にはよくあることなの」と発言する。つまりこの描写こそ、心と時間の関係を見事に描写してるのではないだろうか。
この心と時間の描写こそが「時をかける少女」の内に秘められた心理のように思われる。時間や出来事は、それらを観察した個人の心に大きく左右される。おじさんにとって、かわいい女の子と過ごす3時間は矢のように過ぎるが、孤独に過ごす3時間は長いのだ。同じ仕事をしていても。
かつて、映画は「人の心を描く手法」だった。有象無象の映画が作られる中で、映画はそれを失ってしまった。これは、そういう時代の映画なのだ(そして、いま映画が立ち返るべき時代なのではないだろうか?)。