何が映画か 「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって 黒澤明 宮崎駿
黒澤明と宮崎駿、二人の巨匠の対談集。1993年初版。この時代、すなわち1980年代後半から1990年代初めの日本映画界をみてきた人たちは幸福である。実写とアニメの巨匠がそれぞれ刺激を受けながら活躍してきたのだから。黒澤監督は「まあだだよ」を作ったばかり。宮崎監督は「紅の豚」でのびのびとした作品を作り出してきた頃である。映画界の先輩後輩として、対談を行うのにベストなタイミングではないだろうか。
個人的には2人とも、映画作りと時代を意識した発言が多いのが記憶に残った。映画はやはり「時代」が作るものなのだろう。それは時代考証だし、公開される時代に受けるか否かであるし、後の世にどう残るかということでもある。
黒澤監督が自身の映画の細部を事細かに覚えていることも印象的だった。これは宮崎監督も付録で述べているが、黒澤監督が現場の人であった証左であろう。現場の苦労、現場の工夫、現場の力をよくわかっているからこそ、黒澤監督はその力を引き出すことができたのだ。結局の所、監督が映画を作るのではない。現場が映画を作るのだ。監督はその力を最大限に引き出すための存在なのである
映画作りの1つの時代を知る上でとても貴重な資料である。実写でもアニメでも、映画監督を目指す人に読んでほしい。
月夜のサラサーテ 森博嗣
森博嗣のつぶやき本、第7段。
見開き2ページで1テーマ。短い文章でスパッと切れ味のいい内容が展開される。
内容の関連性はほとんどないので、まさに思いつくままに書かれた文章なのだろう。それにも関わらず、しっかりした内容があることにいまさらながら驚く。
思うに、これはフォーマットがしかっりしているからではないだろうか。限られた文字数のなかで、起承転結を明確に文章を綴ることで、森博嗣クラスになるとどんな内容でもとりあえず一定のクオリティの文章が生み出せるのではないだろうか。
まぁ、そんなことは読み手には関係ない。ふと暇なときに適当にページを開けば、ビビッとくる文章を読むことができる。カバンにいれておいて損はない一冊だ。
代表的日本人 内村鑑三 著 鈴木範久 訳
明治時代。日本は荒れ狂う西洋文化の波に揉まれていた。そんな中で「西洋に対し日本人とはこういうものだ」ということを示そうと、英語で出版された一冊。そこには、西洋文化の激流の中で、それでも自国の文化や思想を失わずに生きたいという著者の考えがみえる。
紹介されるのは、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の5名。それぞれ、社会のために生きた政治家、優れた地方領主、努力と勤勉の聖人、真の教育者、世を正す宗教家、というところだろうか。
現代は、インターネットの普及により、ありとあらゆるものが高速化して社会の壁が薄くなってきた。地球上の社会が均等になろうとする一方で、自国意識が高まりつつ有る。America firstなんて言葉もずいぶん当たり前のように聞こえる。均質化と差別化のバランスのなかで、今は差別化が求められる時代なのだろう。こんな時代において「日本人らしさ」をぼくは見失っているような気がする。この本は、そんなぼくに少しヒントを与えてくれたのではないだろうか。
とはいえ、自国第一主義が素晴らしいことだとは思わない。行き着く先は戦争しかないように思う。ただ、自国に対して誇りを持つことも必要では有る。国を維持していくのであればだが。今の時代には、この本は冷静に読まなければいけないかもしれない。
影との戦いーゲド戦記 アーシュラ・K・グウィン
生まれついての魔法使いゲドは、その力に導かれるように成長していく。しかし、魔法学院での慢心から、かれは不用意な魔法により影を呼び出してしまう。ゲドと影の宿命を巡る旅が始まる。
これはいい物語である。現実を遠く離れ、しかし妙に現実感のある世界観。自然でありながらも教訓を含む物語。是非子どもたちに読んでほしい。そして大人も読むべきだ。この物語には「事を成す」ための教訓が詰まっている。そして、それはまさに生きていくために必要な教訓ではないだろうか。
どうも、ぼくは映画のゲド戦記が苦手でちゃんとみることができない。最初のゲドとハイタカが旅をしているシーンには惹かれるのだが、その後が続かない。テルーが出てきてしばらくすると気がつけば寝てしまう。
そしてこの原作1巻を読んで気づいた。なるほど全く別物なのだ。原作で語られるアースシーの世界は小さな島国(町)で構成されており、その島ごとの独特の文化がある。そのなかを渡り歩きながら、人と出会い、挑戦と妥協の中で、ゲドは少しづつ成長していく。その雰囲気を残しているのが映画の旅のシーンで、だからこそおもしろいのだ。一方で、その先にあるものは原作の力を借りない、宮崎吾朗監督なりのストーリーであり、キャラクターなのだろう。だから、今ひとつ力が足りないのだ。
現実の世界であれ、魔法の世界であれ、人はそこに意思を持って生きていかねばならない。この本のなかでは、魔法の世界の大きな運命の風のなかで、翻弄されつつも己の道を歩まんとするゲドの姿が描かれる。挫折と成長。すべてひっくるめて彼の人生であり、それを受け入れる心こそが心の力なのだろう。
万人におすすめしたいいい本である。
合戦の日本史
まあだだよ 黒澤明
Amazon primeで何度も見ていいる。なんだか妙に僕の心の琴線をくすぐる作品なのだ。くするぐる者の正体はまだよくわからない。古き良き日本人なのかもしれない。戦後の混乱とその中で生き生きと生きる日本人なのかもしれない。日本人そのものか。世の中の馬鹿馬鹿しさか。時代への皮肉なのかもしれない。ただ、ぼくはこの映画に惹きつけられる
今、印象に残るシーンは2つ。
1つ目は「まあだだ会」のシーン。まさに百閒先生への敬意と人間と生き生きとした生命力を感じるシーンである。今、こんな宴会を開いたらほんとうの意味で馬鹿だとか、金の無駄遣いだとか批判の声が耐えないのであろう。しかし、この宴会の中にこそ、人間ののびのびとした、それでいて秩序ある社会の姿があるようにおもわれる。現代は理想に縛られすぎて狭っ苦しくなっている。「私の理想」と「貴方の理想」が近すぎて区別がつかなくなっているのだ。ヒトの理想や価値観はみな違っている。誰ひとりとして同じ理想を持つことはない。それはだれも同じ生涯を歩むことはないからだ。だから人は、己の価値と他人の価値の間でせめぎ合う。その結果生まれるのが社会だ。そして、もし理想的な社会があるのなら、それは個人の自由を保ちつつ全体の調和が取れた社会なのであろう。それは実に稀有である。たぶん歴史上には残っていない。歴史はその規模の大きさから、個人よりも社会が優先されてしまう。黒澤明監督は歴史に残らない人間の営みをこの映画に残したのだ。
2つ目は地主のシーンだ。百閒先生の新居の隣の空き地を戦後の成金が買いに来る。成金はここに3階建てのでっかい屋敷を建てようというのだ。しかし、その土地の権利を持つ地主が反対する。「隣の方のことも考えていただかないと・・・。それではこのお宅には一日中日が当たらなくなってしまいます」。とうとう地主は土地を売ることを拒否する。その決断の重さやいかに。戦後、食うや食わずで明日の生活にも事欠くからこそ、地主は土地を売ろうとしているのである。その場に居合わせだ百閒先生の弟子(学生)達は機転を利かせてその土地を買い取る。もちろん百閒先生には内緒である。輝く人間性が後続の者を育てる。いや引き上げる。戦後の日本には資本主義が大きな波を立てて襲ってきた。現代日本はもはや資本主義に飲み込まれてしまった。
日本人が、ずっと大切にして育ててきたものは大戦に敗北して壊れてしまった。この映画にはその「消えゆく大切なもの」が残っている。でも、もうその大切なものを取り戻すことはできないだろう。もちろん現代の日本社会を否定することもできない。人間は進歩した。進歩とはより強いものを取り入れることである。その一方で捨てられたものがあることは忘れられがちである。しかし、失われてたものが劣っているわけではない。我々は大事なものを捨てて成長しているのかもしれない。