続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

本を読む本 MJアドラー、CVドーレン著 外山滋比古、槇未知子訳

 

これは「本を読む人」のための本である(第一章冒頭)

 

 1940年代にアメリカで刊行された一冊。世界中で翻訳され読みつがれているこの本は、ぼくが敬愛する外山滋比古らによって訳され日本語でも読むことができる。「読書」という行為を4段階のレベルに分け、わかりやすく、そして鮮烈にその意義を説く。

 

 たぶん、本を読むという能力はこれからも重要なものであり続けると思う。世の中の最新情報は、文字で届くことが多い。インターネットが普及し、回線の高速化が進んだ現代でさえ、情報の多くは文字の形で流れている。もちろん動画や音声も随分普及したし、VRなんかも最近では活躍しているが、やはり情報の第一線は文字が支えている。本書で語られる読書技術は何も本を読むためだけのものではない。文字を介して得られる情報を、広く、深く探るには「読書技術」が必要なのだ。

 

 とはいえ、個人的にはこの本に書いてあることは、多くの人が無意識に行っていることだと思う。しかし、当たり前過ぎてわれわれはそこに「技術」が存在することに気がついていない。この本はその技術を言葉によって分解し、ぼくらがあいまいに捉えてきた「読書」というものにクリアな輪郭を与えてくれる。簡単にいえば「読書技術の存在」に気づかせてくれることこそがこの本の1つの価値だろう。技術は意識的に使ってこそ価値を発揮する。その意味で、すべての人々にこの本をおすすめしたい。

 

 個人的には高校生ぐらい読んでおけばよかった。その後の人生で出会った本とのあり方が全く違ったかもしれない。それぐらい有意義な一冊だと思う。本棚にずっと残して、繰り返し読みたい。

 

 

奇跡の人 ヘレン・ケラー・著 小倉慶郎・訳

 

 1900年頃のアメリカ。目が見えず、耳が聞こえず、言葉もしゃべれない。ヘレン・ケラーは幼少期の病気により三重苦となる。しかし、家庭教師のサリバン先生の献身的な教育により、ヘレンはらラドクリフカレッジ(当時のハーバード大学女子キャンパス)を卒業するまでの学業を修める。そんな彼女が22歳のときに書いた自伝。

 

 ヘレン・ケラーの人生のうち、四半世紀にも満たない部分を整理した自伝。しかし、やはり数奇な人生を歩んだ彼女だけのことはあり、その密度は高い。時代背景を鑑みれば、まさに奇跡のような出来事が積み上がり、彼女がこの本を書くまでに育て上げたのだ。そして、もちろんそれだけの奇跡を受け止める彼女の器もすばらしい。

 

 「感じる」ということは実にその人を形成する。視覚と聴覚を失った彼女はあらゆるものを触覚、味覚、味覚、嗅覚で感じ取る。文字は手のひらに書いてもらう、本は浮き出し文字の特別製、花の香り、人の唇の動き、彫刻の手触り、お腹に響く音楽の振動・・・。彼女はぼく達とは異なる方法で世界を感じ取ってきた。そして、おそらく誰よりも世界を深く楽しんだ。

 

 もちろんこの奇跡の背景には豊かな財力があるのだ。だがサリバン先生を始め、彼女の周りに集まった人々はただ金を積めば得られる人材ではなかったのだろう。グラハム・ベルが同時代に生きていたことも運命的に思われる。いや、やはりサリバン先生だろう。彼女はなんと20歳で6歳のヘレンの家庭教師になったという。サリバン先生自身も視力が弱かったらしく、同じ障害を抱える人間であったことが、素晴らしく粘り強く献身的な教育をヘレンに与えることに繋がったのは間違いない。

 

 学び、教育について改めて考えられる一冊だった。学校ばかりが学びの場ではない。そう思えば、ヘレンがそうだったように、ぼくたちもまた学びの途上にいるのだから。

方丈記私記 堀田善衛

 

 1945年3月10日、東京大空襲である。当時27歳だった著者も空襲に巻き込まれ、その騒乱のなかで方丈記を再発見する。

 

 鴨長明方丈記はたしか中学だか高校だかの国語の教科書で読んだと思う。いわゆる「無常観」というものは、なんとなく僕の心を惹いた。「ゆく川の水は絶えずして、しかも元の水にあらず」。その一文でさえ、はっと気付かされるものがあった。ふと思い立って全文を読んだのは、このブログをたどると2年前。しかしまあ、当時のぼくの感想は実に浅はかであった。

 

 類まれなる知識と歴史観を持つ著者の頭脳では、戦争の騒乱は鴨長明が生きた平安時代の騒乱とリンクしていく。人間に、人間社会に大きな負荷が生じたとき、そこには共通するものが現れてくるのだろう。騒乱にある世の動きと、人の心をつぶさに観察する中で、著者は世を捨て山にこもり社会の傍観者たらんとした鴨長明とリンクしていく。その先に、鴨長明その人を紐解こうという趣向の一冊。

 

 まずはこんな読書の仕方があったのかと驚かされた。自身の体験と本の世界をリンクさせ、自由自在に思考は展開されていく。まさにインテリの業であって、ぼくにはとてもできそうにない。しかし、この本はその気分だけでも体験させてくれる。鴨長明という人についてもぼくはなんにも知らなかった。「世捨て人」という簡単な言葉でくくるには、鴨長明は複雑すぎる。

 

 歴史に弱いぼくには十分に理解はしきれていないが、平安の時代というものも感じることができる一冊だった。平安時代というのは、文字通りののほほんとした時代ではないのだ。庶民の暮らしは厳しく、都の中では現実逃避に近い朝廷文化が育っている。貴族は腐敗し、鎌倉時代へと続く武家の台頭がじわりじわりと迫ってくる。夜の闇は今の何倍も深かった。鴨長明という人は、都にあって朝廷文化のなかに生まれ育った今で言うところの勝ち組だ。しかし、その我の強さというか、自身の才覚が世の中に馴染まず、ついには出世の道をとざされ都を下る。単純な「無常観」で割り切れるほど簡単な人ではないのだ。いや、一語で簡単に人を表せるなどと考えること自体が間違いであった。

 

 歴史・人・戦争。いろんなことに思いを馳せることができるまさに名著であると思う。ぼくはどの分野も弱いのでなかなか読むのに苦労した。しかし、苦労しただけのかいはあった一冊だと思う。

「独裁者」の時代を生き抜く27のヒント 池上彰

 

「国家に対して、バラバラになった個人は弱いわけですね」(池上彰佐藤優との対談にて)

 

 ニュースををわかりすく知りたいなら池上彰の話を聞くべきだ。この本ではそんな著者が読み解く世界の情勢が伝えられる。世の中問題が山積みだ。日本の中にも、外にも放置できない問題がごろごろ転がっている。そのうえにCOVID-19騒ぎである。

 どうしようもなく、世の中の不安感が高まっている。世の中自体も不安定になりつつある。その反動として強いリーダーが求められているように思う。自分たちから不安を取り除いてくれる人がほしいのだ。しかし、一方で、強いリーダーは心ひとつで独裁者にもなりうる。

 そんな状況で、われわれ個人はどう生きていけばいいのだろう?いま、われわれは生き方を考えなくては行けない時代なのかもしれない。

一枚の絵から 海外編 高畑勲

 

 ジブリの漫画映画監督・高畑勲が一枚の絵から、思うままに語る一冊。

 

 圧倒的インテリで理屈屋の高畑監督の語りはとても楽しい。本当に一枚の絵から、じつにいろいろな話を展開してくれる。「絵を楽しむ」とはこういうことかと、改めて思い直すことができた。また、監督の記憶力にも驚かされる。いつ、どこで、どんな展覧会があり、自分がどんな絵をみて何を感じたのか、次から次へとよく出てくるものだ。資料が残してあるのかもしれないが、それにしてもすごいと思う。

 

 絵が好きな人にぜひ読んでほしい。絵の印刷も大きくてきれいだ(残念ながらいくつかの絵はページにまたがっているので完全には見えないが)。高畑監督と一緒に絵をみて、その含蓄を語ってもらっているような気分になれる。

 

ニュースの読み方使い方 池上彰

 ニュースの達人池上彰さんが情報収集とその活用についてノウハウを一挙公開するという本。

 普段、何気なくニュースを見たり新聞を読んだりしているが、そこから真に情報を得るというのは大変に難しい。株価の増減ひとつとっても、クリアに説明できるほど理解できている人はほんのひと握りだと思われる。情報を得るということは、ただ字面で確認するだけではない、情報源のバックグラウンドも含めて、数多の情報を照らし合わせ、解読していくことが必要である。一つの記事に現れるのは実に表面的な情報に過ぎないのだから。

 情報リテラシというものの重要性を改めて教えてくれる一冊。この高度情報化社会。誰も情報に触れずに生きることはでけいない。すdに古い本だが、全ての人に価値ある一冊だと思う。

なんくるなく、ない よしもとばなな

 よしもとばななさんのエッセイ。1999−2005年にかけて、沖縄旅行の記録と日々の想いが綴られる。

 エッセイというよりかは日記に近い。読者というよりは自分自身に向けて書いたような本。そんなプライベートを切り売りできるというのが作家の凄さというところだろうか。ただ、正直登場人物が全然わからないし、読み手としてはなんだかモヤモヤする。まあよしもとばななファンであればわかるのかもしれない。
 
 全体的に女性らしさ、いや女の子らしさが溢れる文章で、男の僕にはどうもついていけないところがあった。男女の違いというものを精神面で改めて感じた。とはいえ、それが良いとか悪いとかいうつもりはない。それを楽しむことが大事なように思う。

 冒頭、1999年の東京の騒がしさについて触れている。そういえばこの年はノストラダムスの大予言とか、2000年問題とかで世の中が根拠のない不安感に包まれていた。マスコミまでその不安感を散々煽って。結局、年が明けてみれば大したことは何もなかった。隕石が落ちてくる事もなかったし、世界中のコンピューターが誤作動することもなかった。なんとなく、今のコロナ騒ぎにも似たようなものを感じる。もちろん性質は全く違う問題なのだが、日本人の悪い国民性とでもいうものが顕になっているのではないだろうか。

 世紀末の喧騒を著者は沖縄の空気で乗り越えた。今また同じようなものが必要とされているのかもしれない。