続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

方丈記私記 堀田善衛

 

 1945年3月10日、東京大空襲である。当時27歳だった著者も空襲に巻き込まれ、その騒乱のなかで方丈記を再発見する。

 

 鴨長明方丈記はたしか中学だか高校だかの国語の教科書で読んだと思う。いわゆる「無常観」というものは、なんとなく僕の心を惹いた。「ゆく川の水は絶えずして、しかも元の水にあらず」。その一文でさえ、はっと気付かされるものがあった。ふと思い立って全文を読んだのは、このブログをたどると2年前。しかしまあ、当時のぼくの感想は実に浅はかであった。

 

 類まれなる知識と歴史観を持つ著者の頭脳では、戦争の騒乱は鴨長明が生きた平安時代の騒乱とリンクしていく。人間に、人間社会に大きな負荷が生じたとき、そこには共通するものが現れてくるのだろう。騒乱にある世の動きと、人の心をつぶさに観察する中で、著者は世を捨て山にこもり社会の傍観者たらんとした鴨長明とリンクしていく。その先に、鴨長明その人を紐解こうという趣向の一冊。

 

 まずはこんな読書の仕方があったのかと驚かされた。自身の体験と本の世界をリンクさせ、自由自在に思考は展開されていく。まさにインテリの業であって、ぼくにはとてもできそうにない。しかし、この本はその気分だけでも体験させてくれる。鴨長明という人についてもぼくはなんにも知らなかった。「世捨て人」という簡単な言葉でくくるには、鴨長明は複雑すぎる。

 

 歴史に弱いぼくには十分に理解はしきれていないが、平安の時代というものも感じることができる一冊だった。平安時代というのは、文字通りののほほんとした時代ではないのだ。庶民の暮らしは厳しく、都の中では現実逃避に近い朝廷文化が育っている。貴族は腐敗し、鎌倉時代へと続く武家の台頭がじわりじわりと迫ってくる。夜の闇は今の何倍も深かった。鴨長明という人は、都にあって朝廷文化のなかに生まれ育った今で言うところの勝ち組だ。しかし、その我の強さというか、自身の才覚が世の中に馴染まず、ついには出世の道をとざされ都を下る。単純な「無常観」で割り切れるほど簡単な人ではないのだ。いや、一語で簡単に人を表せるなどと考えること自体が間違いであった。

 

 歴史・人・戦争。いろんなことに思いを馳せることができるまさに名著であると思う。ぼくはどの分野も弱いのでなかなか読むのに苦労した。しかし、苦労しただけのかいはあった一冊だと思う。