続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

ふしぎの海のナディア

 

  時に1889年。人類が飛行機の開発に躍起になっていたころ。電気がエネルギーとして使われ始めたころ。フランスの発明家少年・ジャンはパリ万博で褐色肌の美少女に一目惚れする。少女の名はナディア。サーカスの花形であった彼女は不思議な宝石ブルー・ウォーターのために悪人どもに狙われてしまう。ナディアを助けることに成功したジャンは、不思議な冒険に巻き込まれていく。

 エヴァンゲリオン新劇場版がなかなか公開されないので、アマゾン・プライムで公開されてたこっちを観た。監督はエヴァでおなじみ庵野秀明。主要スタッフもGAINAXメンバーだ。

 といっても世代ではないので初見。しかし、この作品をみてエヴァは単体で特異な作品なわけではないと知った。まぁ、あたりまえのことなのだが監督の嗜好というか性癖というか、好みはこの作品とエヴァで共通するところが多い。ボーイ・ミーツ・ガールな物語。地球外生命体・アダム。機械のロジックを超える人間の心。秘密結社。なぞのピッチリスーツ(エロい)。

 子供向にしては、いや子供向けだからこそか、パロディが多い。ブルース・ブラザーズ宇宙戦艦ヤマト天空の城ラピュタウルトラマン。細かいものを数えればきりがないと思うのだがいたるところにパロディが散りばめられている。ただの監督の趣味とも思えるが、これは強烈なリスペクトなのかもしれない。ナディアをみた子どもたちはいつかこのパロディに気づくのだろう、そしてオリジンにも興味を持つのかもしれない。こうしてオタクが増えていくのだ笑

スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス

 

 

 遠い昔、彼方の銀河系で・・・。

 銀河をまたいで文化は発達していた。多様な人類が交流し銀河をまたぐ共和国が宇宙に秩序をもたらしていた。とはいえ宇宙には辺境もある。辺境の荒くれ者である通商連合は惑星ナブーを包囲し戦争を仕掛けていた。ナブーは共和国に救いを求めるが、すでに共和国は腐敗しており反応は冷たい。ジェダイの騎士であるクワイ=ガン・ジンとそのパダワンであるオビワン=ケノービはこの紛争の解決のためナブーに派遣される。

 

 スター・ウォーズの4作目にしてエピソード1。ぼくにとっては初めて観たスター・ウォーズであった。まだ小学生ぐらいだったと思う。当時はルーク3部作の存在も知らなかったが、それでもこの映画をとても楽しんだのを覚えている。なぜかポスターをとても印象深く覚えている。砂漠で少年アナキンが一人歩いている。その影は本人と全く違う化物の形をしていた。この化物とはもちろん(後に知ったが)ダース・ベイダーである。

 

 改めておっさんになって見直したがやっぱり楽しめた。後の展開を知っていても、知らなくても、この映画はおもしろい。「おもしろい」要素がこの映画のなかにしっかりとあるということだろう。手に汗握るポッド・レース。アナキン少年の旅立ち。ジェダイ評議会という大人の組織。共和国の政治を利用した策謀。そして戦争。2時間ちょっとの時間によくぞ詰め込んだと言いたい。

 

 進化したCGI技術がこの作品の面白さを支えている。そもそもジョージ・ルーカス監督は、かつての技術では満足する映像を作れないとのことで、ルーク3部作をまず作ったのだ。そのルーカス自身が育てあげたCG技術がやっと監督の目指す作品に追いついた。ということでこの作品の映像は素晴らしい。ちゃんと架空の世界を作っている。当時の実写映画では絶対できなかった映像なのだ。

 

 そんなわけで、スター・ウォーズに興味があるならぜひ観てもらいたい一作。個人的には公開順にエピソード4−6、続いて1−3の順で観るのが良いと思う。でも、どれか一個だけ観たいというのであればこのエピソード1を観てほしい。

 

 

 

スターリンの葬式協奏曲

 

スターリンの葬送狂騒曲(字幕版)

スターリンの葬送狂騒曲(字幕版)

  • 発売日: 2019/01/19
  • メディア: Prime Video
 

  ソ連を率いる独裁者・スターリン。いかなる独裁者もいつかは死ぬ。スターリン脳卒中で死んでしまう。取り巻きたちは大慌て。大騒動が幕を開ける。

 この映画、邦題に似合わず本格的である。共産主義という強固なピラミッドのてっぺんが崩れた時、てっぺんを狙う権力争いが幕をあげる。

 スターリンの懐刀・ベリヤはあの手この手で周囲を懐柔していく。スターリンの補佐官であったマレンコフはその後継者となるも、どうにも力が足りない。ニキータ・フルシチョフはここぞとばかりに暗躍を開始する。結果は歴史が示すとおりだ。ちなみにこの映画の原題は「The Death of Stalin」というなかなか重いもの。邦題に騙されず一度見てほしい。

 この時代の共産主義はもちろん理想的な共産主義ではない。当時の共産主義が作ったものは、少数の人間が社会を主導する強固なピラミッド社会だった。ピラミッドの頂点にはスターリンがいた。ピラミッドを強固にしていたのは秘密警察だ。そして今、その頂点にいたスターリンが死んだ。周囲を取り巻くおエライサンたちはその座を狙ったのだ。

 結果としてというか、下手に歴史を描くより、当時のソ連の雰囲気をよく伝える映画になってるのではないかと思う。同時にその「雰囲気」は昨今の日本の社会によく似ているように思われる。権力が暴走し、だれもが権力の意向を伺っている。それしか術がないのだ。もちろん建前はあるが実情としての権力は暴走している。

 この映画の時代。強大な権力は良い結果を産まなかった。結局のところ、個人や少数の人間が権力を握ることは社会全体を抑制することになったからだ。同時に多くの命が失われた。全くもって共産主義や独裁者を褒めることはできない。だから、その雰囲気を感じ取る力をわれわれのような民草が持つべきなのだろう。目先の欲に飛びつけば、自分たちが生きる国家を失うことになるのかもしれない。

 「腐敗した国家」の雰囲気を肌で感じることができる映画。国家や政治に興味がある人は見ても損はないだろう。

鬼滅の刃 無限列車編

 

 

 鬼。無限の生命と再生力を持つ化け物。弱点は陽の光と首の切断。人間を遥かに凌駕する鬼が暗躍する世界。人は鬼に対抗し、やはり闇の組織・鬼殺隊が暗躍していた。主人公たちは鬼の関与が噂される無限列車に乗り込む。鬼殺隊を支える「柱」の一人である煉獄と合流し、鬼を討つ任務を帯びて。

 

 今更という感じだがやはり映画館で見るべきだと思い観に行った。いろいろと特殊な気もするが、やはり1つのエポックメイキングな映画であったことは間違いない。そんあ映画はやはり映画館で見ておくべきだ。

 

 僕自身は原作漫画は全て読んだ。TVアニメはみていない。

 

 映画の感想の結論は「これはいい映画化だ」の一言である。原作漫画はダイヤの原石だった。アニメ化で輝くダイヤとなったのだ。もちろん原作漫画も十分輝くダイヤだったのだが、この作品はアニメ化で更に輝やいた。まさに「いい仕事」とはこういうことをいうのだ。

 

 漫画はほぼ一人の人間が描きあげている。だからいろいろと限界がある。その限界がまた作品に味を生み出す要素でもあるが、いいアニメ化はその限界を汲み取って、より良い作品を生み出すということであろう。

 

 まず、背景がいい。実にリアルだ。もちろんアニメなのだが一瞬写真ではないかと思うようなリアリティがある。これは漫画ではできないことだろう。鬼滅の刃の重いストーリーはリアリズムのなかでこそ生きる。「世界の重み」をこの映画は作品に加えたと言ってもいい。

 

 次に動きがいい。つまりアニメーションがいいということだ。すっごい動く。特にバトルシーンはすっごい動きに縦横無尽のカメラワークが加わり「凡人の目では追えない超速のバトル」という感じが出ていていい。ただ、3DCG部分はちょっと画面から浮いていて残念だった。いっそ全部描いてくれたらやばかったかもしれない(鬼の所業)。

 

 そして総合的に理解が深まる。フルカラーで、動きがあって、音声やBGMがついている。いろんな補助が加わることで作品の理解が恐るべく深まる。個人的には煉獄さんの無意識が「燃え続ける石畳」であることにしびれた。漫画を読んだときには気が付かなかったが、煉獄さんの心の中はまさにキリスト教の「煉獄」であったのではないか。つまり天国には行けないが、地獄に落ちることもない。天国へ昇るための魂の精製を必要とされる空間。それこそが煉獄さんの心だったのだ。煉獄さんの逝去に伴い母が現れることがそれを裏付けている。煉獄さんは救われたのだ。

 

 あと、これもいまさらではあるが「日光を弱点とする敵」という設定はうまいもんだと理解した。もちろんこの設定自体は使い古されたものだ。オリジンはどこになるのだろう?吸血鬼のような気がするがもっと古いものがあるのかもしれない。オリジンが1つではない気もする。とにかく「光が弱点」という設定は物語を盛り上げる。なぜなら、光が弱点である敵は夜に行動するからだ。必然的に主人公たちは夜間に戦わざるを得ない。人間は夜が苦手だ。恐怖を感じる。詰まるところ、人間は視覚に頼った人間だからなろう。これが主人公の、いあや読者の恐怖を煽る。つまり物語の舞台を作る上で「日光が弱点である敵」は実に有効なのだ・・・いや、いまさら自信満々に書くことでもないか。ぼくはアカザ戦の最後の炭治郎のセリフでやっとこれを理解出来たのだ「鬼殺隊はみんなお前らが有利な夜の闇で闘っているんだー!」みたいなセリフ。当たり前のことを言っているだけのようにもみえるが、鬼殺隊が夜の闇の中でこそ戦いを意識するのは、鬼は光に弱いという設定があるからこそなのだ。

 

 流行り物ではあるが、個人的には十分に観るに値する映画であった。注目すべきは「なぜこの映画がヒットしたのか」であろう。個人的には「苦しさ」が共感を生んでいるように思う。アニメ映画のターゲットはせいぜい30代までだろう。この映画の主人公たちは実に苦しい環境に追い込まれている。そこに感情移入できる人間が日本社会には多い。つまり、現代の若い世代は多かれ少なかれ自分達をとりまく環境に苦しみを感じているのではないか。

マネー・ショート 華麗なる大逆転

 

 

マネー・ショート華麗なる大逆転 (吹替版)

マネー・ショート華麗なる大逆転 (吹替版)

  • 発売日: 2016/06/22
  • メディア: Prime Video
 

 2008年。「リーマン・ショック」が起こった。少なくとも20代以上なら耳に残っているこの事件。アメリカの経済がひっくり返り、その余波で世界の経済は大パニックとなった。そんなリーマン・ショックに至る、いわゆるサブプライム・ローン問題を扱ったこの作品。この問題の背景にはアメリカ経済の基盤の歪みがあった。歪みは経済バブルを生み出し、そして世間は気づいていなかった。その歪みがどれほど大きくなっているのか。しかし、世間には気づきつつある人間がいた。本作の主人公はそういった人間たちである。世間からイカれていると揶揄されながら、彼らは行動を開始する。世界は、まだ何も気づいていない・・・。

 

 いやー、おもしろかった。もっと早く見ればよかった。リーマン・ショックの背景、サブプライム・ローンについても非常にわかりやすく説明してくれる。もちろん、この映画を見た程度で問題の本質を理解できるわけではないが。

 

 

 結局、制度の不備もありサブプライム・ローンは弱者を食い物にするシステムとなってしまった。しかしやりすぎたのだ。弱者を食い物にしすぎれば、最終的にシステムそのものが破綻してしまう。弱者も強者も、皆もろともに崩壊してしまう。

 

 好景気という雰囲気が米国全体を阿呆にしていた。だれも制度の抱える大きすぎる問題に気づかなかったのだ。この映画の主人公達を除いては。

 

 主人公たちは気づいてしまった。サブプライム・ローンが抱えるとんでもない問題に。このシステムはいずれ破綻する時限爆弾だったのだ。同時にそれはむき出しの資本主義でもあった。資本主義はマルクスがいうように化物なのだ。手綱なしでは全てを食らい付くしてしまう。主人公たちはさまざまな思惑を抱えつつ、資本主義の暴走に賭けたのであった。それは、資本主義を完全に支配できていると錯覚していた当時の人々からしてみればクレイジーの一言であった。

 

 という感じで、非常に楽しめて、また勉強になる映画だった。「投資家」という我々庶民からは遠い人々の存在。如何に現代社会が脆い存在であるか。社会人であるならこの映画をみて損はない。そういう意味では万人におすすめできる映画である。

 

 ところで、上の画像の右端の人はなんとブラピである。こんなキャラもできるのかとびっくりした。ファイト・クラブに象徴されるキレッキレのキャラクターから、このおっさん。しかも世の中に絶望して世捨て人のように生きている。この振れ幅。さすが一流である。

エリジウム

エリジウム (吹替版)

エリジウム (吹替版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video

 今から100年ほど未来。地球環境は崩壊していた。選ばれた人間たちは宇宙にコロニー・エリジウムを作り生活拠点をそちらへ移した。一方、荒れ果てた地上ではエリジウムの植民地のような扱いになり、人々は非道い差別の中を生きることとなった。主人公・マックスは元悪党。現在はまじめに労働する道を選ぶが、いつ首を切られるかわからないような奴隷状態。そして社員のいい加減な指示のせいで大量の放射線を浴び残り5日の命とされる。マックスは裏ルートでエリジウムへと登り、医療ポッドへ入ることを決意する。

 うーん。いい加減なSF。まぁエンターテイメントとしては可もなく不可もなくというところだろうか。ハリウッド映画らしく頭空っぽに
してみるのが正解と思われる。

 とはいえ、映画を通してアメリカ社会の問題みたいなものを描こうと努力していることは伝わる。地上とエリジウムの格差は貧富の格差問題を端的に表しているのだろう。そして富める者が貧者を支配するという構造。その人間性の無さを痛烈に批判しようとしている。資本主義的民主主義が抱える大きな問題がやはりアメリカ社会にも根を伸ばしている。そして当然の帰結として、この映画の物語は革命であり、世界を根底から覆すお話なのだ。そういうお約束ものとしては良くできている。

 ユートピアディストピアを同時に描いたというのがこの映画のちょっと面白いところではないだろうか。SFでは未来が繁栄したユートピアである場合か、崩壊したディストピアである場合が多い。この映画は宇宙にユートピアを築き、地球をディストピアとしたことで異なる未来のビジョンを同時に提示したことが面白い。そして、同時に人類が分断される未来を描いたのだ。歴史が示すように、分断の行き着く先は衝突である。異なる集団が触れ合う時、歴史が示すように片方は他方を滅ぼしかねない。近年は分断が深まる時代である。人は調和のために、一体なにができるのだろうか?
 

TENTET クリストファー・ノーラン

 

 

 主人公(名前は決まっていない)はその腕を見込まれて、秘密組織の一員となる。与えられたのは「TENET」という言葉のみ。秘密組織のなかで彼は時間逆行技術の存在と、それによる未来人からの過去への侵略を知ることになる。果たして、事件の黒幕は何者なのか。主人公は深く事件に関わっていく。

 

 ノーラン監督最新作。時間を扱うということで「メメント」のような作品を予想したが、ちょっと違った。たぶん、本作は「ノーラン監督が好き放題やってみた映画」だ。

 

 作中世界では、未来において物体の時間を逆行させる技術が生まれたらしい。どうも第三次世界大戦に関連したとか。そして、映画的にそれはフィルムの逆再生で表現される。たぶん、いや、間違いなくノーラン監督はフィルムの逆再生を面白いとおもっているのだろう。この感覚は子供でもわかるものだ。そして、そこから発展して、時間が順行する現在の人々と、時間を逆行する未来の人々の戦いを一画面に捉えたのが本作である。その映像は、正直常軌を逸していて、その制作の量力たるや並外れているだろう。逆光と順行を一画面に収めるた、実際に逆行行動を俳優・スタントマンはとったという。驚愕の演技である。凄まじいリテイクの賜物ではないだろうか。

 

 タイムスリップではなく、時間逆行という概念を映像にしたのがこの作品の面白さだろうか。しかも、”個”の時間逆行なのだ。時間が逆行する世界ではなく、あくまで世界の時間は順行するなかで「逆光」する存在を描く。つまり「時間の流れ方は個々によって違う」という設定が新しい。

 

 時間ものにありがちな「伏線」は張り巡らされている。オーソドックスなものは一見して先読みできた(過去に闘った敵が実は未来の自分自身である、とか)が、たぶん細かいことは読み切れていない。この映画はたぶん2回以上観ることを想定されている。

 

 この2回以上観ることが前提であることに、現代という時代におかれた映画の立ち位置を感じる。つまり、映画の配給形態が大きく変わったのだ。映画は、劇場で上映されるものではなく、家でパソコン画面で配信されるものになってきた。この時代の変化にノーラン監督が敏感に反応しているのだろう。露骨なほどに伏線のキーアイテムをクローズで映すのがその証拠だ。映画館のスクリーンでみせることを前提としていない。小さなパソコンの画面でもわかるように作っている。

 

 個人的には、映画は映画館でみるものだと思う。少なくとも、”映画体験」とは劇場で映画を観ることを指すと思う。そういう意味ではちょっと残念だ。ただ、この映画近いうちにもう一度みたいとは思う。