続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

まあだだよ 黒澤明

 

まあだだよ

まあだだよ

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 Amazon primeで何度も見ていいる。なんだか妙に僕の心の琴線をくすぐる作品なのだ。くするぐる者の正体はまだよくわからない。古き良き日本人なのかもしれない。戦後の混乱とその中で生き生きと生きる日本人なのかもしれない。日本人そのものか。世の中の馬鹿馬鹿しさか。時代への皮肉なのかもしれない。ただ、ぼくはこの映画に惹きつけられる

 

 今、印象に残るシーンは2つ。

 

 1つ目は「まあだだ会」のシーン。まさに百閒先生への敬意と人間と生き生きとした生命力を感じるシーンである。今、こんな宴会を開いたらほんとうの意味で馬鹿だとか、金の無駄遣いだとか批判の声が耐えないのであろう。しかし、この宴会の中にこそ、人間ののびのびとした、それでいて秩序ある社会の姿があるようにおもわれる。現代は理想に縛られすぎて狭っ苦しくなっている。「私の理想」と「貴方の理想」が近すぎて区別がつかなくなっているのだ。ヒトの理想や価値観はみな違っている。誰ひとりとして同じ理想を持つことはない。それはだれも同じ生涯を歩むことはないからだ。だから人は、己の価値と他人の価値の間でせめぎ合う。その結果生まれるのが社会だ。そして、もし理想的な社会があるのなら、それは個人の自由を保ちつつ全体の調和が取れた社会なのであろう。それは実に稀有である。たぶん歴史上には残っていない。歴史はその規模の大きさから、個人よりも社会が優先されてしまう。黒澤明監督は歴史に残らない人間の営みをこの映画に残したのだ。

 

 2つ目は地主のシーンだ。百閒先生の新居の隣の空き地を戦後の成金が買いに来る。成金はここに3階建てのでっかい屋敷を建てようというのだ。しかし、その土地の権利を持つ地主が反対する。「隣の方のことも考えていただかないと・・・。それではこのお宅には一日中日が当たらなくなってしまいます」。とうとう地主は土地を売ることを拒否する。その決断の重さやいかに。戦後、食うや食わずで明日の生活にも事欠くからこそ、地主は土地を売ろうとしているのである。その場に居合わせだ百閒先生の弟子(学生)達は機転を利かせてその土地を買い取る。もちろん百閒先生には内緒である。輝く人間性が後続の者を育てる。いや引き上げる。戦後の日本には資本主義が大きな波を立てて襲ってきた。現代日本はもはや資本主義に飲み込まれてしまった。

 

 日本人が、ずっと大切にして育ててきたものは大戦に敗北して壊れてしまった。この映画にはその「消えゆく大切なもの」が残っている。でも、もうその大切なものを取り戻すことはできないだろう。もちろん現代の日本社会を否定することもできない。人間は進歩した。進歩とはより強いものを取り入れることである。その一方で捨てられたものがあることは忘れられがちである。しかし、失われてたものが劣っているわけではない。我々は大事なものを捨てて成長しているのかもしれない。