続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇

 

 

 20数年前に世の中を震撼させたエヴァンゲリオン。その庵野秀明監督自身が「Rebulid of Evangelion」を謳った新劇場版シリーズ。そしてやっと辿り着いたその終章。それがこの映画である。

 

 以下、ネタバレもあるので読みたい人だけどうぞ。

 

 前作Qから直接続く世界。アスカに率いられるシンジとレイは、第三村に救われる。そこはニアサードインパクトから辛うじて生き延びた人々が暮らす集落だった。ケンジとケンスケもこの村の一員であった。シンジたちを救ったのはケンスケだったのだ。

 

 鑑賞後の最初の感想は「ああ、エヴァンゲリオンが終わった」であった。ぼくは昔のエヴァのリアルタイム世代ではないが、なにかの表紙にTVアニメのエヴァを見たし、劇場版も観た。わけわかんないままの「終劇」にとても困った覚えがある。

 

 さて、そんなわけのわかんないエヴァンゲリオンを本作はしっかりと終わりへと導いた。無事に着地した、といってもいい。Rebuild...として再度エヴァの世界を構築し直しながらも、終盤に旧劇場版も含む全てのエヴァンゲリオンを着陸させた。まさにエヴァの呪縛を解く物語だった。そしてやっと劇中の登場人物も、観客もエヴァから開放されたのだ。

 

 全体の感想は正直まとまらないが、以下に断片的な感想を書こうと思う。支離滅裂だと思うが。

 

1. ミサトさんについて

 TV版・旧劇のミサトさんは母になれなかった女性の象徴だったと思う。シンジくんの母になろうとしながら、それは叶わなかった。

 

 このシン・エヴァミサトさんは母になった。全てがうまくいったとはいえないけれど。加持さんと間に子供を設けたのだ。そして、終盤、シンジくんの母としての役割も果たした。そしてシンジくんもそれを受け入れた。二人の息子を得たミサトさんは満足そうに死地に向かったとぼくは思う。

 

2. 結末を描くことについて

 エヴァンゲリオン新劇場版シリーズは結局4作。起承転結にあたる作品作りだったといえるだろう。

 

 たぶん、庵野監督は物語の「転」に全力を傾けすぎるのであろう。それは着地を顧みない大ジャンプ、いや超ジャンプである。だからこそ、着地にあたる「結」を探して苦悩するのだ。それこそうつ病になってしまうほどに。そして、旧劇場版では着地できなかった。「終劇」は唐突に訪れた(ように観客は感じた)。終わるべきところまで物語は運ばれなかった。結局、「転」で終わった物語がだったのだ。

 

 エヴァQも旧シリーズに負けず劣らずの超ジャンプだった。そしてこれが「転」であった。みんな心配したのだ。「また着地できないんじゃないか」と。しかし、今の庵野監督は成長していた。たぶん、多くの仲間にも恵まれた。彼はちゃんと着地した。のみならず、その着地は旧シリーズの着地にもなっていた。監督は20年前にできなかった着地を成功させたのである。ウルトラCといっていいだろう。

 

 結末を描くことがこんなに大事だとおもったことはない。作品を半端に終わらせることで、二次創作の幅が広がる、むしろそういった表現もある、と思っていた。しかし、終わりのない物語は観客を縛り付けてしまうこともあるのだ。物語を終わりに運ぶとは、製作者が観客にけじめをつけるということなのだろう。

 

3. キャラクターの救済について

 本作の終盤。エヴァパイロット達の救済が行われる。それはまるでシンジくんによるセラピーのようでもあった。

 

 カヲルは「シンジくんを幸せにすることで自分が幸せになりたい」という気持ちに気付かされ泣き崩れる。

 

 アスカは「大人になでてもらいたかった」という気持ちを受け入れてくれる人を見つける。

 

 レイは「シンジのために生きる」という過剰な自己犠牲から開放される。

 

 旧シリーズではエヴァの登場人物の多くがどうしようもない結末を迎える。そして、やっと本作でエヴァの登場人物の多くがやはり着地する。碇ゲンドウでさえも、救われたと言ってもいいのではないのだろうか。

 

 

 

 

 

 その他思うことはいろいろあるが、間違いなくエヴァンゲリオンは終わったのだ。本当に長い時間がかかったがエヴァンゲリオンの物語は終わった。個人的にはすごい映画だったと思う。