続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

春の雪 豊饒の海(一) 三島由紀夫

 

 「今、夢を見ていた。又、会うぜ。きっと会う。滝の下で」(松枝清顕)

 

 三島由紀夫の最後の長編大作。その第一巻。時は明治。公爵家の若殿である清顕は、伯爵家の聡子に密かに思いを寄せる。しかし、二人の気持ちと行動はすれ違い、事は両家の命運を巻き込む大事へと発展していく。

 

 たぶんこの一巻は「日本的なもの」を追求した作品ではないだろうか。著者の生きた時代、戦争に敗け西洋文化の荒波に飲み込まれていく中で、日本の国は時間的にも空間的も分断されていたのだと思う。そんな中で、「この国はなんなのか?」ということを模索するのは当然のことではなかったか。三島由紀夫なりの答えがこの一冊にあるように思われる。その日本的なものは、登場人物の他者を慮り己を押し殺すストイックさであり、侍のような忠義であり、天皇を奉る思想であり、「家」という制度に現れる。そういうものが洗練され、頂点を極めていたのが物語の舞台となる明治時代であったのか。

 

 上にあげたような日本的なものは、現代のわれわれからすると古臭いし、必要のないものだ。今更そこにもどる必要はない。だが、一つ問題があるとすれば、われわれは文化を洗練して今の形に行き着いたのではなく、戦争に敗けて文化を捨て去って西洋化してきたのだ。だから、三島由紀夫は「日本人を日本人たらしめるものはなんなのか?」と読者に厳しい質問を突きつけているように思う。

 

 さて、メインストーリーは恋愛ものなのでぼくは苦手だ。あんまり好きではない。一方で、このあとの巻につながる伏線がそこかしこに張り巡らしてあるらしい。そして、そのことはすべてを読み終えた最後のページでサラリと示唆される。「ああそうか。この一冊を通して豊饒の海という作品に挑む下準備ができたのだ。まだぼくは入口をくぐっただけに過ぎない」ということがわかり、俄然続きが気になってしまう。さすがの構成力である。

落語こてんパン 柳家喬太郎

 

 

 柳家喬太郎が好き勝手に落語を語る・・・というお題目のメールマガジンをまとめた一冊。

 

 落語家というものは自分で芸を演るだけでなく、他の落語家の芸を観なくてはならない。芸を磨くというのはその繰り返しによってできるのだろう。この本は落語家の目線でみた「噺」についての語りである。演者としての噺のおもしろいところ、むずかしいところに始まり、師匠達の芸が如何におもしろいのか。あるいは自分の芸の反省点など。落語というものを演者の視点で眺めるというのもおもしろいものである。

 

 ただ、落語というものを観たことも聞いたこともない人にはたぶん内容は伝わらない。そんな人はこの本を手に取ることもないと思うけど。落語の世界が好きな方、柳家喬太郎の芸が好きな方におすすめの一冊。いや、そりゃあ当たり前か。

落語的笑いのすすめ 桂 文珍

 

 落語家・桂文珍慶應義塾大学で笑いについての講義を行う。その模様を書き起こした一冊。

 

 読む前は、大学1年生向けの一般教養の授業だろうし表面的なお笑い論なんだろうなと思っていたが、読んでびっくりしっかりとした哲学の伴う深いお笑い論だった。人はどうして笑うのか?笑うことには一体なんの意味があるのか?笑いを生み出す仕組みとはなんなのか?そんな疑問に答えつつ、包括的に「笑い」というものを論じていく。

 

 さすが噺家だけあって、軽妙なトークは文字になっても読みやすい。お笑い入門書として最適の一冊だと思った。

夢を釣る 佐伯泰英

 

 

 神守幹次郎は吉原の裏同心。吉原で起こる問題に知略と剣術で立ち向かう。

 

 なんかテキトーに中古で買った一冊で、シリーズ5作目であるらしい。1−4作は未読なので、背景がよくわからないままダラダラ読んだ。登場人物などの背景が掴みきれないので、もうひとつストーリーは楽しめなかったが、江戸時代の吉原の雰囲気だったり、当時のルールみたいなものを感じ取ることはできて面白かった。馬鹿な話だが「沽券」という言葉の本来の意味をこの本で知った。それだけでも100円の価値はあったかな。

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? フィリップ・K・ディック

 

 第三次世界大戦の後、世界は放射線を含む灰に包まれた。リック・デッカードはバウンティ・ハンター。火星から地球に逃げ込んだアンドロイドを始末するのが彼の任務だ。贅沢品と化した「生きた」ペットを購入するため、彼は今日も仮に出かける。

 

 いわずとしれた映画・ブレードランナーの原作。個人的に映画のほうがお気に入りなので、どうしても読んでいると映画のビジュアルが被ってきてしまう。ただ、登場人物や設定は大体同じでも、映画とは違うところも多い。つまり、映画はこの原作もとにさらに洗練した世界観とストーリーを作り出している。

 

 とはいえ作品を貫くテーマは原作から映画へと受け継がれている。限りなく人間に近いロボットが作られたとき、人間とロボットは区別されるのか?その問が作品内に繰り返し登場する。レイチェルと出会うことで、リックはおそらく無意識にこの問にぶつかる。アンドロイドとの出会いと闘い、レイチェルとの邂逅を通してリックの価値観が揺らいでいく。たぶん、エピローグでリックがたどり着く価値観は、おそらく人類が初めて到達した境地なのだろう。この物語は、ある意味はじまったところで終わっている。

 

 あと映画では削ぎ落とされた設定が原作では大きな意味を待つ。マーサー教とバスター・フレンドリーのTV番組だ。前者はこの世界で広く信じられている宗教だ。共感箱を介して、教祖・マーサーにアクセスすることで人々は心の交流を果たす。アンドロイドと人類の違いとされる「共感」のちからで、人々は心の穴を補い合っているのだ。過酷な世界のなかで。バスター・フレンドリーのTV番組は地球の人類が唯一見ることができるTV番組だ。アンドロイドたちも気に入っている。延々と続く刺激的なトークやニュース。人類は「無限に与えられる刺激」の虜になってしまっている。これらは世界観を支える舞台装置であるわけだが、終盤どんでん返しが起こる。皮肉たっぷりに「共感」という人とロボットの境界線が取っ払われる。これこそが作者の結論なのだろう。

 

 骨太のSFを味わいたい人におすすめの一冊。

ロボット(R.U.R) チャペック作 千野栄一訳

 

ただもう引き返すには遅いんでは(ガル博士)

 

 ロッムス・ユニバーサル・ロボット(R.U.R)工場。その本部に重役たちが集まる。商売の成功を祝うのだ。彼らの作り上げた「ロボット」は世界中の人々を労働から開放しつつあった。楽園は地上にもたらされるのだ。人類はるいに神の御業に到達したのか。物語の幕が上がる。

 

 「ロボット」という言葉はどのように誕生したのか?答えはこの作品である。「ロボット」とはもともとフィクションの世界の言葉だったのだ。ロボットとう言葉はロボットが作られるよりも前から人間界に存在していた、というのはとてもおもしろい気がする。

 

 けれども、この作品の「ロボット」は僕たちが思うロボットとは少し違う。僕らが想像する鉄人28号とか、ガオガイガーみたいな金属で出来た存在ではない。「ロボット」は人造人間なのだ。人工的な身体を持ち、脳も筋肉もなにもかも人によって作られた。神が自身に似せてアダムを作ったように、人は己の似姿として「ロボット」を作ったわけである。たった一つ、ロボットには心が無かった。それがロボットをヒトと区別する唯一の違いであるほどに、「ロボット」は限りなくヒトに近いものであった。「ロボット」は機械工学の到達点ではなく、生物工学の究極の形として描かれる。こちらがオリジンなのだから、むしろ機械のロボットがまがい物といえるのかもしれない。

 

 驚くべきことに、「ロボット」達は人類に反旗を翻す。いまでこそよくある展開だが、ロボットはその誕生の時から、すでに奴隷として生まれ反逆の意思を内在する存在であったのだ。これが原義の「ロボット」だとすると、手塚治虫メトロポリスの主役・ミッチィが「ロボット」の翻案であったことは間違いないだろう。そういえば火の鳥のロビタも「ロボット」に通じるものがある。ジェームズ・キャメロン監督のターミネーターなんかも「ロボット」の影響下にあるといっていい。

 

 「ロボット」は言葉の誕生とともに完成していた概念であったのかもしれない。意味的に派生したロボットも数多生まれたが、原義の「ロボット」は現代にも通用している。本作の発表は1920年。ロボットの歴史は約100年ということになる。これからもロボットは派生していくだろう。それでも、オリジナルに勝るロボットはなかなか生まれてこないにちがいない。

 

 詳細は書かないが、エピローグも圧巻である。人類の科学が頂点に達したところからはじまり、人類の終焉で物語が頂点に達したあと、それでも最後には壮大な希望が残っている。言葉にできない感情が僕の中に生まれるのを感じた。すべての人に読んでもらいたい傑作である。

 

浜村渚の計算ノート 青柳碧人

 

「これが、数学か?」(瀬島)

「はい。四色問題です」(浜村)

 

 日本は数学テロ組織・黒い三角定規による攻撃を受けていた。国策として改定された義務教育課程において、数学はぞんざいに扱われ、日本国の数学力は低下の一途をたどる。数学を愛するものたちの不満はテロとなって爆発した。難解な数学テロに悩む警察が放った白羽の矢は、数学少女・浜村渚を射抜いたのであった。

 

 ・・・という世界設定が豪快すぎておもしろい。数学テロ組織ってなんだよ、とか、数学テロってなんだよとか、いろいろ笑っちゃう感じだが、暗い設定とは裏腹に結果としてこの設定が作品を明るく楽しい雰囲気にしている。漫画っぽい雰囲気なのでコミカライズされそうだな、と思って読んだがとっくの昔にされていた。

 

 シリーズ1作目ということで扱う数学もメジャーなもので親しみやすい。四色問題、0という概念、カルダノの公式、円周率、フィボナッチ数列など。理屈よりはそのおもしろさに重点を当てているところが小説としてとても良い。

 

 むしろ、数学嫌いの人に読んでもらいたい一冊。計算と数学は違う。数を扱う面白さ、論理を扱うおもしろさに、ほんのちょっと触れることができる一冊だ。