続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

嘘実妖怪百物語 序/破/急 京極夏彦

 

虚実妖怪百物語 序/破/急 (角川文庫)

虚実妖怪百物語 序/破/急 (角川文庫)

 

  鬼が妖怪をコロスーーー

 

 妖怪好きは馬鹿である。そしてそれを自認してそれぞれに勝手なことをやってきた。妖怪雑誌「怪」の関係者たちもそうだ。しかし、ある日妖怪好きの大御所、水木しげる大先生が怒っているという連絡が入る。曰く、日本から目に見えないものが消えている、と。その言葉に呼応するかのように、世間では妖怪が目撃されはじめる。気のせいではない、確かに目に見え、カメラにもうつる妖怪の出現。世間は狼狽し、妖怪好き達は肩身が狭くなる。ついには自警団や暴徒が妖怪好きを襲うほどに緊張が高まる。一体、日本に何が起きているのだろうか。

 

 一応ジャンルは実名小説、ということで登場人物の大半は実在の妖怪好きたちである。鬼太郎でおなじみ水木しげる大先生を筆頭に、帝都物語荒俣宏、そして京極夏彦自身まで。ぼくはそこまで妖怪界隈に詳しくないのでわからないが、現実の人間関係などをしっていると面白いところがあるのだろう。作中では「現実」と「虚構」がひとつのテーマであり、作中世界の現実が存在するのだが、その「作中の現実」がすでに「読者諸君が生きる現実の世界のパロディ」という虚構になっている。

 

 相変わらずのレンガ本で持ち運びに困るが、相変わらずスラスラ読める文体で読むのには困らない。内容は京極夏彦版「妖怪大戦争」といったところか。とにかく作者のもてる妖怪知識が叩き込まれており膨大すぎるオマージュ、パロディ、引用でできた物語である。古今東西の妖怪知識にはじまり、その延長としてマンガやアニメ、特撮ものも関係してきて、なんかもう妖怪というよりは虚構の世界ならなんでも著者の興味の範疇のような気がする。いや、ある意味人が作った虚構の世界はすべて妖怪に通じるのかもしれない。

 

 基本的には肩の力を抜いて気楽に楽しめる作品だが、ちょっとだけ現代の日本社会や政治のあり方、人の生き方についての皮肉のようによめるところもある。例えば、妖怪は人間の余裕の産物だと作中の京極夏彦が説くシーン。妖怪が居なくなるとはすなわち人間の余裕が失われているのだ、と。なるほど現代はどんどんと効率化が求められている。より早く、より正確に、より無駄なく。それが良いことだとされている。しかし、だとしたら妖怪好きの馬鹿達は世の中から居ないほうがよいことになってしまう。小説なんて生きる上ではなんの価値もないのだから。だが、この世から小説がなくなれば、マンガが無くなれば、映画が無くなれば、我々が豊かになるのかと言われれば逆だろう。効率化と人間の豊かさは直結するものではない。余裕をもって、小説やマンガや映画を愉しむことができる人生こそ豊かだといえる。その辺りを現代の日本人はちょっと勘違いしがちなのかもしれない。もちろんこれは作者の主張ではなく、ぼくの勝手な解釈なのだが。

 

 妖怪好きにおすすめしたい一冊。京極夏彦初体験の人にはおすすめしない。まずは姑獲鳥の夏あたりをどうぞ。