続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

推し、燃ゆ 宇佐見りん

 

推し、燃ゆ

推し、燃ゆ

 

 推しを本気で追いかける。推しを解釈してブログに残す。

 

 推しがファンを殴った。ネットは炎上。ファンは騒然。あたしはそれでも全力で推すだけ。それが私の背骨なのだから・・・。

 

 芥川賞受賞の話題作。タイトルを聞いてぜひ読んでみたいと思った。すごくリアルタイムな、現代の人間が描かれているような気がしたのだ。結論としては思った以上によかった。自然な言葉でありながら、描かれる人物はファン活動にはまり込んだ人間をとても生々しく描写している。きっとこういう人が世の中にいるんだな(ぼくの知人には居ないのでわからないが)と思わせるパワーが有る。

 

 ファン・オタクといった側面に加えて、主人公のあたしは問題を抱えている。人並みのことができず、水商売のバイトをするもミスばかり。高校の勉強にはついていけず留年、退学。就職できず、新しいバイトは見つけられない。家庭のなかでも浮いてします。母はストレスを抱え、姉には距離を感じる。父は作中わずかにしか登場しない。単身赴任だろうか。どこかヨソヨソしく他人行儀だ。一人暮らしはうまく行かない。部屋はゴミだらけ。洗濯物は雨に濡れる。食事はコンビニのカップ麺とおにぎりばかり。

 

 あたしは注意力のコントロールが上手ではない節があり、雨と洗濯物をそれぞれ認識してもその関連に気づけない。借り物をしても借りたことすら忘れてしまう。それをなにかの疾患と考えることもできるのだろう。いや、人の能力には個人差があるから、あたしの能力はこういうものだと考えることもできる。だが、原因を考えても仕方がないのだろう。しかし、あたしのような人が生きづらい世の中であることは間違いないように思う。もちろん救いの手はあるのかもしれない。しかし、そこから漏れてしまう人もいる。一度漏れてしまったら助けを得ることが難しい。本当に苦しい弱い立場にある人には、助けの手を探すための行動がわからない人もいると思う。

 

 社会的な弱さ・苦しさからの逃避として、ファン活動へのめり込むということもあるのかもしれない。結局、アイドルとか、マンガや小説のキャラクターというは空想の産物なのだ。虚構であって存在しないのだ。存在しないからこそファンは自分の理想をそこに見出す。空白を自分の想像で埋めて自分の理想的なアイドル像を委ねるのだ。そして、自分の作り上げた理想のアイドルを推すことで自分の存在を肯定する。ファン活動とは現実から目を逸し安らぎを得ることなのだ。それは何も悪いことばかりではない。しかし、現実に生きている以上現実を疎かにして生きることはできない。バランスが大事ということだろうか。

 

 その他、あたしのコミュニケーションがブログやSNSに偏ってある意味自分自身も理想で埋めようとしている様子や、逆に現実のコミュニケーションがうまくできないところなど、いかにも今の時代が描かれているようでおもしろかった。この本を30年後ぐらいに読み直したら、一体どういうふうに感じるのだろう。

 

 文学の、特に毒っ気という意味での、魅力に溢れる作品。現代の若者のファン活動の記録としてもとてもおもしろいと思う。みんなにおすすめしたい一冊。