続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

男はつらいよ お帰り寅さん

 

 

恥ずかしながら寅さんシリーズはまったく見たことがない。それでも寅さんの風貌はなんとなくしっているし、テキヤ稼業で全国を放浪してふらりと家に帰っては大騒動を繰り広げる、破天荒なキャラクターもなんとなくイメージはもっている。「寅さん」というキャラクターは日本人の心のどこかにそっと住み着いているのだ。

 

本作は寅さん50周年記念作品にして、シリーズ50作目(すごい!)。ぼくはよく知らないが、シリーズ歴代のマドンナも出てきて密度の高い映像とストーリーが続く。

 

鑑賞前にTVで山田洋次監督のインタビューを見た。そこで監督は「今の日本に、もう一度寅さんを見せてあげたい。彼のような人は、世の中に受け入れられるわけではないのだけれど」というようなことを言われていた(と思う。たぶん)。

 

世の中はどんどんスピードが早く、さらに正確になってきている。フーテンの寅さんはもうきっと今の世に居場所はないのだろう。いや、昭和・平成の時代にも寅さんの肩身は苦しかったはずなのだが、それでも生きていけないことはなかったと思う。別に寅さんのような人が身近にいてほしいとは思わないが、荒っぽくて感情的なそんな生き方をする、寅さんのような生命力に溢れる人が世の中には必要なのかもしれない。

 

 イレギュラーなものを受け入れられる社会は強いのだ。型をもつことは大事だが、型にハマりすぎることは柔軟性を失うことにつながる。何事も余裕があるほうがいい。人も社会もだ。

 

この映画では、寅さんは実在の人物としては出てこない。主人公となった満男の思い出や、酔っ払った際の幻に寅さんがでてくるだけだ。寅さんは生きているのか死んでいるのかはっきりしない。もはや寅さんは空想上の存在なのだ。しかし、その空想上の寅さんが満男に生きる力を与えている。人生の岐路に立ち思い悩む満男を支えてるのは空想上の寅さんなのだ。

 

この満男と空想上の寅さんの関係は、映画と観客の関係と同じではないだろうか。映画は突き詰めてしまえば作り物なのだ。空想に過ぎない。でも映画は観客の心に残る。ときには映画が観客の心の支えになることもあるだろう。空想の世界が現実の人間に影響を与える。空想の世界な不思議な力を、この映画は教えてくれる。

 

ラストシーン。満男は新作小説の冒頭を書き始める。タイトルは「おかえり 寅さん」。書き出しは「こんな夢をみた。」だ。夏目漱石夢十夜を引用し、山田洋次監督は寅さんの物語を夢に昇華させたのだと思う。日本人の心の深いところを支える力強い夢だ。