続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

ジョーカー トッド・フィリップス

 

 

「僕の人生は悲劇だと思ってた・・・。でもそれは主観だ。改めて見れば僕の人生は・・・喜劇だ」(ジョーカー)

 

やっと見に行けた。仕事が忙しくてなかなか映画館へ行けなかった。公開当日にいkたかったが、今やすっかり話題の映画になってしまった。

 

主人公・アーサーはピエロ(クラウン)の派遣業で苦しい生活を続けている。ゴッサムシティは荒れている。一部の富裕層のため、貧しいものは顧みられないのが世の常だ。母子家庭で病の母を支え、母の言葉を受けて人々を笑顔にしたいとアーサーはコメディアンを目指して必死に生きる。しかし、あまりの苦境にアーサーの精神は徐々に崩壊していく。今、バットマンの最大のライバル・ジョーカーが生まれようとしていた。

 

現代の「タクシー・ドライバー」とでもいうべき映画。かつて底辺から社会を見上げたデニーロが、今度は社旗の頂点を演じるのは、これも一種のコメディなのか。

 

生まれるべくして生まれた映画なのだろう。MCUが大成功してヒーローが強調された映画界に人々はお腹いっぱいだ。そしてデッドプールが風穴をあけ、ヴェノムが続いた。ダークヒーローたちの活躍は、純粋なヴィランにもスポットライトを当てる日が近いことを示唆していた。そして、恐るべき速さでこの映画が世に生まれた。ハリウッドのなせる技だろうか。観客の、世の中の動きに実に鋭敏に反応する。

 

たぶん、この映画の感想は割れるだろう。胸糞悪くて見ていられないという人と、アーサーに共感してしまう人だ。簡単に言えば前者が上流、後者が下流の人間なのだろう。僕は下流の人間だった。「優しくなければ生きている意味がない、強くなければ生きていけない」。そんな言葉を残した人もいる。世の中には優しくても強くない人もいるのだ。ハンター×ハンターのコムギは決して一人では生きていけない。アーサーはそんな人だった。そして誰も彼を活かそうとはしなかった。彼はその優しさ故に社会からはみ出したのだ。

 

この映画には「人間社会の限界」を感じる。社会に噛み合う、社旗に迎合できる人は生きていく。しかし、迎合できない人間もいるのだ。それだけ人間は多様なのだ。社会という規範からはみ出した人間はどうなってしまうのか。その悲しさが、この映画にあふれている。いや、その特異点が描かれている。

 

冒頭の引用はジョーカーとして目覚めたアーサーの言葉である。社会に「普通であること」を求められ、それが敵わなかった男の悲痛な叫びである。

 

ジョーカーはただの人間である。特殊な能力も、機材も彼は持たない。しかし、その類稀なるカリスマ性がジョーカーを惡の華へと昇華させていく。

 

ヒース・レジャーの行かれた悪役のジョーカーは最高だった。しかし時代が変わったのかもしれない。悪としての人間という、ホアキン・フェニックスのジョーカーを生み出したこの映画は時代に刻み込まれるべきだろう。