続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

決算!忠臣蔵

 

 

100点満点でいうなら45点。そんな映画。多分、原作小説を読んだ方が10倍は楽しめるだろう。

 

忠臣蔵といえば主君の仇を家臣が成すという忠孝物語なわけだが、何を成すにも先立つ物は必要で、実際にその帳簿まで現代に残っているから驚きである。そんな帳簿を元に作られたのが原作小説であり、この映画だ。

 

最近の時代劇はコメディが主流になってきた。「昔の人は偉かった」という言葉は今の観客には重たいのだろう。今の時代劇は「昔の人も所詮人間だった」というところが強い。その為にコメディは丁度いい隠れ蓑なのだ。

 

しかし僕は思う。わざわざ映画という形で「昔の人も所詮人間だった」という物語を描く必要があるのだろうか、と。それはみんなわかっていたんじゃないのだろうか、と。つまり、人間は人間なのだ。大いに馬鹿だし怠け者だ。そんなことは大前提であり、その上で何かを成し遂げるからこそ、その人物は素晴らしい。映画には時間の制約がつきものだ。そんな大前提はいちいち描いていられない・・・のが本来だが、現代の観客にはそれを描かないといけないのかもしれない。つまり、この映画は低レベルな観客に合わせて仕方なく作られたとも言える。そして、だからこそ売れると判断されたのであろう。

 

このお話にふさわしいのは「落語」のフォーマットである。映画ではないのだ。語るものが違う。落語家こそ、この物語の語り手にふさわしい。映画でやる噺ではないのだ。志らく師匠あたりがやるべき噺なのだ。

 

それでも目の付け所は十分に面白い。だが、脚本が残念極まる。

 

特に岡村隆史演じる矢頭長介の扱いはひどいものだ。彼はかごに乗った大石内蔵助と間違えられて暗殺されてしまう。まず、敵に命を狙われているにも関わらず、供もつけづ単独でカゴに乗り込む大石内蔵助に腹が立つ。いくら太平の世とはいえ、武士が帯刀する時代のことである。さらにそのカゴに乗り込む姿を見て動く暗殺側もいい加減である。何ターゲットの乗るカゴを見失っているのか。白昼堂々殺しをやるのだ。失敗が許される訳が無い。そこそこの人数がいたようなので、最低2人はカゴの監視につけておくべきだろう。馬鹿なのか。いや、そもそも時間的に蔵之介のカゴと長介のカゴを見間違うわけがないのだ。蔵之介がカゴに乗って出発し、状況を把握してから長介はカゴを「読んで」いる。20−30分では差がつくだろう。敵味方ともに馬鹿ばかりである。

 

本作の唯一褒められる点は、作中に討ち入りのシーンを描かなかったことだ。忠臣蔵といえば誰もが深夜の討ち入りシーンを思い描くだろう。それを描かずに面白く仕上げてみせる。監督の意地とパワーが感じられ図にはいられない・・・だが、それもあえなく崩れる。そうエンド・クレジットで討ち入りに挑む47志のの行軍が描かれるのだ。最初はぼかしておきながら、それは徐々に輪郭を伴い描かれる。監督がスポンサーに負けた瞬間である。いや、折衷案とも言えるのか。とにかく観客は幻滅である。

 

そんなわけで映画として作る作品でなかった。さらには日本映画の脚本の甘さも露呈しまくった。作中では「恥」という言葉が飛び交ったが、まさにこの映画を世に出すことが恥である。お金を払ってい映画館へ行ったことを大変申し訳なく思っている。