続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

表現の不自由展に関する雑感

 とりとめない話だが、書いてみようと思う。

 

 僕自身は「表現の不自由展」を見ていない。だから中身のことはわからない。あくまでもメディアから得た情報を元に書いてみる。

 

 結論としては、この美術展はクローズされるべきようなものではないと思う。この展示には議論が巻き起こっている。いつの時代も議論を呼ぶものは物事の本質に迫りる重要なものだ。否定も肯定もどちらも、勝ったほうがこの国の倫理観の一部を形成するだろう。ならば、多くの人が見るべきだ。多くの人が自分の目で見て、聞いて、触って、感じて、議論すべきだ。ゆっくりと、堅実に、決して暴力に訴えてはならない。

 

 アートには様々な目的や意図がある。綺麗だなとか、可愛いなとか、かっこいいなとか、人を心地よくさせるアートはある。当然多くの人に受けるからそういうアートは世の中にあふれている。アーティストと言われる人たちも、どうしてもお金に困れば不本意でもそういうものを作る。ポジティブなアートは多いし作られやすい。でもそれがアートの全てではない。

 

 アートにはネガティブなものもある。例えば「我が子を食らうサトゥルヌス」というテーマを画像検索てほしい。ドン引きである。頭がおかしいとしか思えない。多分一番多く出てくる画像がゴヤが描いたものだ。この絵はプラド美術館に展示されている。ちゃんとした価値は知らないが100万円では買えないだろう。多分桁が2つ以上違う。

 

 あるいは、大槻ケンヂの曲を聞いてほしい。例えば「ノゾミ・カナエ・タマエ」とか「これでいいのだ」「蜘蛛の糸」なんかどうだろう。音楽の世界は目に見えない分敷居が低い。自由度が高い。多分、大抵の人は「うへぇ」と思うのではないか。でも、このバンド・筋肉少女帯のファンは多い。ああ、そうだピンク・フロイドのアルバム「Dark side of the moon」やQueenの「Death on two legs」なんかも大変ネガティブである。

 

 アートはポジティブである必要はないのだ。

 

 ではアートとはなんなのか。僕は一つのコミュニケーションであると思う。1つの作品は多くの人間にメッセージを与える。それに対する返答はさまざな形があると思う。良い作品ほど多くの返答を生む。数が増えれば様々な返答が含まれるのは当然だ。人はみな絶対的に異なるのだから。多様な返答の存在は、それだけ多くの人に感じ取られ、その返答を引き出した素晴らしい作品の証明なのである。名作こそ揉める。かつてクロード・モネの描いた日の出が「まるで印象を絵にしたようだ(まともな絵画ではない)」と批評家に酷評され、一方で印象派と呼ばれる絵画の大家がモネに追随し素晴らしい絵画を残したように。今も印象派の火は消えていない。

 

 僕は人を不快にさせることもアートの重要な要素だと思う。そこには「こういうことはしちゃダメですよ」「世の中にはこんな悲しいことがありますよ」「この問題をあなたはどう考えますか?」というメッセージがある。感受性豊かな立派な人間はこのメッセージを受け取っているはずだ。

 

 さて、今表現の不自由展は揉めている。その先鋒を切っているのが名古屋市長のようだ。天皇批判を筆頭に(僕は実物を知らないが昭和天皇を批判するような展示があるらしい)、美術展の中止を求めているようだ。税金云々の問題を出しているが、お金の出どころは展示内容とは関係ないと思う。ルールに則って出金したなら、それ以上は口を出すべきではない。ルールに則っていないならお金を出すべきではないし、内容うんぬんで出金を決めるならそれをルールに明記すべきだ。「ルールに則って出金するという決断」をしたなら後から口を出すのは基本的にはおかしいだろう。

 

 揉めている、ということは否定派も肯定派も作品からメッセージを受けている。作品は同一でも、その返答が人によって異なるのだ。その対立は議論に発展すべきであり、その先にこそより洗練された日本人の回答が生まれる。この貴重な機会を提供しているのが「表現の不自由展」だ。クローズしては議論は狭まる。回答はそれだけしょぼくなる。多くの人が見るべきだ。人々が何を思うのか、アートは社会の鏡である。対立を恐れては進歩がない。ぶつかり合う先に、新たな地平が開けるのだ。たとえそれは途中過程でも、踏み出した一歩は無駄ではないだろう。

 

 ここからは僕個人の意見だ。表現の不自由展という特異点を受けて僕個人の返答をしたい。

 

 まず、改めてこの展示はクローズすべきではない。多くの人が見るべきだ。理由は長々と上に述べた。なんなら全国を巡回すべきだ。海外に出てもいいと思う。

 

 次に「自分(あるいは知り合い)が不快だから展示には反対だ」という人にもう一度考えて見てもらいたい。なぜ不快なのだろうか?慰安婦問題?天皇批判?それはアーティストの間違った認識によるものかもしれない。それを正す努力は大切だ。コミュニケーションをしっかり取るべきだろう。しかし、それは「臭いものにはフタ」という考え方ではないだろうか。フタをしても臭いものは臭い。いつかは臭いも漏れてくる。本当に大事なことは臭いものの処理をキチンと考えることではないだろうか。全てに立ち向かう必要はないが、立ち向かうことを考えることは必要ではないだろうか。人間は失敗をするし、まるで考えないようなバカなこともする。そういうとこも含めて人間なのだ。

 

 もし心地よいものだけがアートとなれば、日本社会は衰退していくだろう。砂糖水に浸かりきっていては育つものも育たない。一定の批判や問題提起は必要なのだ。不快なことに真摯に向き合うことも大切だ。アートにはそういった役割がある。

 

 アートは現実から一線が引かれている。そこで問題に向き合うことは、現実で問題に向き合う力を養うために重要だ。「水清ければ魚棲まず」という。アートは時に毒であり汚れだ。表現の不自由展をクローズすることは、蒸留水でメダカを飼うようなものではないだろうか。