続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

アド・アストラ

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドに続いてブラピ主演映画を連続で。

演技ってもののすごさを感じる映画だった。ブラピはこんな演技もできるのか。

ワンス〜のブラピは切れていた。ナイフのようにとんがっていた。ファイト・クラブを彷彿とさせる社会の端で生きる男だった。アウトローだ。

対して本作の主人公を務めるブラピは、繊細で内向的な男を演じる。彼は偉大な父にに振り回される。家庭内でも社会に中でも、偉大過ぎる父は息子に平穏を与えることはなかった。それは宿命とでもいうべきものなのかもしれない。それを受け止めるには、表面的な強さではダメなのだ。体格とか筋肉とか、暴力とか破壊行為とか。そんな薄っぺらいもので社会に個人は立ち向かえない。

本作が描くのは「孤独」である。ブラピ演じる主人公は、父を探し、場合によっては仕留めるために太陽系の端っこに冥王星へたった独りで旅立つ。しかし、この行動や宇宙空間は舞台装置に過ぎない。この作品が描くのは物理的な孤独ではない。心の、精神的な孤独こそが本作の重要な位置付けなのだ。

人は誰かの理解を得て、あるいは誰かを理解して自分の立ち位置を確認している。もちろんそれは幻想的なもので、仮初めの共通認識を獲得しているだけかもしれない。それでも、人はその相互理解の中で生きている。それを完全に失うことはある意味で死ぬより辛いことなのだ。

本作の主人公は、人間社会から完全に隔離されることとなる。さらには(少なくとも表面的に)敬愛する父と壮絶な別離を遂げ、無限の宇宙でのサバイバルにその身を放り出される。恋人にも怒りをぶつけられる。

孤独とは物理的な距離ではなく心の距離なのだ。

ストーリーは意外と古典的だ。幸せの青い鳥といって問題ないだろう。宇宙空間でのサバイバルも、ゼロ・グラビティの延長上にあるといえる。

それでも本作に大きな力を与えるのはブラピの演技だ。その一点において、本作は価値ある一作だと思われる