続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

東京焼盡 内田百閒

 

 明治の文豪・内田百閒によるエッセイ。というか日記。第二次世界大戦のさなか、身の回りのできごとをつぶさに、コミカルに、そしてときにシニカルに綴る。

 

 これぞ「戦時下の庶民」の日記といえる。新聞でしか知らなかった遠い異国の「戦争」が少しづつ日常に入り込んでくる様子が捉えられるのは日記ならではといえる。当時の内田先生は現役を退き日本郵船の嘱託としてのんびりとした文筆業を行っていた。しかし、迫りくる戦争は穏やかな生活を蝕んでいく。知人、友人、教え子たちが焼け出され、ついには自分の住むところも焼けてしまう。知人の門番小屋に居候し、電気もない生活。ラジヲを聞くにも一苦労。・・・これが軍人ではない一般人の「戦争」なのだ。

 

 それでも内田先生はどこか常に楽しむ余裕がある。いつもお酒の心配ばかり。貴重な麦酒を手に入れては心から楽しむ。腹を下せばあれこれと心配し、嫁さんが病気になれば2−3時間おきに熱を測ってわざわざ日記に残している(この本はもとの日記を参考に清書されたものであるというのに!)。つまり、内田先生は戦争の真っ只中にあって、なお人間らしく生きたのだ。人間が人間らしく生きるということ。それは実は貴重なことで、戦争のような大災害はいともたやすく「人間らしさ」を奪っていく。内田先生はその原因である「バカバカしい戦争」に身を持ってあらがったと言える。そして、そんな先生を教え子たちが支えた。

 

 奇しくも、世間ではロシアとウクライナが戦争を始めた。いま、ウクライナの一般人は内田先生と同じ状態なのだ。いや、もしかしたらロシアでもかもしれない。戦争は失うばかりだ。仕掛けた側も、受けた側も。戦争したかったヤツはいい。好きなだけ失えばいい。戦争したくないやヤツから奪うな。そんなことを思った一冊。