続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

かぐや姫の物語 高畑勲

結果的に高畑勲監督の遺作となった本作。監督は最後まで、冷静で正確な作品作りに徹した。それこそが高畑イズムであり、高畑監督の教養であったのだろう。宮崎駿が惚れ、青春を費やした高畑監督。それがこの作品に集約されていると思うと思う。

原作である竹取物語は日本最古の物語である。タイトルからもわかるように原作の主人公はあくまで竹取の翁である。そこを「かぐや姫」の物語としたところは、高畑監督の教養によるところなのだろう。現代人に魅せるべきは翁の姿ではなく、かぐや姫の姿であったということか。

劇中には、日本古来の文化が正確に描かれる。重要なものは「天井人」の存在だろう。古来日本には苦しみも悲しみもない天井の国が存在し、そこには永遠の命を持つ天上人が存在すると考えられていた。地上は苦しみに溢れる世界であり、汚れた世界であった。我々日本人は汚れた世界の一部であった。かぐや姫は違う。彼女は天上人であり、罪を犯した罰によって地上に降ろされたのだ。姫の罪とは何か?その解釈は人それ俺なのかもしれない。僕は映画を観て、姫の罪とは「地上への、地上で苦しみながらも必死に生きる生命への、憧れ」であると感じた。

天上人は不死の存在である。故に生の苦しみも、生の喜びもない。生老病死の苦しみがあって、人は初めて生きる喜びを得る。ただ、永遠に存在し続ける天上人に生きる喜びを味わうことはできない。故に、天上人には感情も記憶もないのだ。終盤、かぐや姫はに天上の羽衣をかけられ全ての記憶や感情を失うのはそのためであろう。

生きることは苦しい。しかしだからこそ、その喜びがある。これが高畑監督の生への教養ではないだろうか。そしてその教養がジブリ映画を作ったといっても過言ではないと思う。宮崎監督は常々「子供達に生まれてきてよかったんだよ」といえる映画を作っているという。高畑監督の思想が宮崎駿にも受け継がれているのだ。

今の日本人には教養がない。高度な教育も、恵まれた環境もあるが、日本人は教養を失った。生きることを苦しいと感じ、なおもその生に立ち向かう日本人が今の日本に何人いるだろうか。真の教育者は子供達に教養を身につけさせるべきだ。知識や知性はその土台にすぎない。