続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

イングロリアス・バスターズ クエンティン・タランティーノ

 

 

タランティーノ映画の良さとは何だろう。いくつかあるが、一つは超人が出てこないことだ。登場人物は皆普通の人間で、ただちょっと並並ならぬ強さを持っている。それは時にはかっこよく、時にはグロく、あるいは冷淡に描写されるわけだが、人間というよりも生物としての強さを描いているように思われる。

 

映画はどんなに頑張ってもファンタジーの域を出ない。それは所詮スクリーンに映し出されるだけのもので現実ではない。ドキュメンタリー映画もあるが、それだって映像化するために都合よく編集されたファンタジーに過ぎない。スター・ウォーズに始まるSFブーム以降。すっかり映画の主流はファンタジーになってしまった。別にそれ自体は悪いことではないが、映画には別の魅力もある。その魅力をしっかり引き出したのがこの映画ではないだろうか。この映画をアベンジャーズなどと比べることはできない。「おはぎとパスタ、どっちが美味しいですか?」と聞いているようなものだ。

 

この映画には群像劇としての魅力、そして人間のパワーを描くという魅力に溢れている。パルプ・フィクションの頃から監督が得意にしてきたことだ。第二次世界大戦を描き、ナチをアメリカ秘密部隊が追い詰めるという作品だが、実は正義も悪もどこにもない。ただ人間たちが闇雲に生きようとしているだけなのだ。暴力も、騙しも全て生きるための選択肢である。

 

それは人間社会の根っこに迫ったテーマなのかもしれない。そして、現実ではな決して触れられないテーマなのだ。映画にはそれができる。さすが映画マニア、タランティーノ監督だけあって映画もつパワーをよく理解しているというところだろうか。

そして、バトンは渡された 瀬尾まいこ

 

【2019年本屋大賞 大賞】そして、バトンは渡された

【2019年本屋大賞 大賞】そして、バトンは渡された

 

 

主人公の優子は複雑な家庭環境で生きている。色々あって、本当の親とは暮らしていない。父親は3人、母親は2人いる。

 

作者が女性なので当たり前なのかもしれないが、女性目線の本だと感じた。よくも悪くも女性の強さや現実的なところが現れている作品でないだろうか。

 

生きる環境を人は選ぶことができない。でもとにかくみんな生きていく。みんなそれぞれの人生を歩く。

 

なんだか、とても不思議なことだ。生きていくといことは、一体なんなのだろうか。

ジョーカー トッド・フィリップス

 

 

「僕の人生は悲劇だと思ってた・・・。でもそれは主観だ。改めて見れば僕の人生は・・・喜劇だ」(ジョーカー)

 

やっと見に行けた。仕事が忙しくてなかなか映画館へ行けなかった。公開当日にいkたかったが、今やすっかり話題の映画になってしまった。

 

主人公・アーサーはピエロ(クラウン)の派遣業で苦しい生活を続けている。ゴッサムシティは荒れている。一部の富裕層のため、貧しいものは顧みられないのが世の常だ。母子家庭で病の母を支え、母の言葉を受けて人々を笑顔にしたいとアーサーはコメディアンを目指して必死に生きる。しかし、あまりの苦境にアーサーの精神は徐々に崩壊していく。今、バットマンの最大のライバル・ジョーカーが生まれようとしていた。

 

現代の「タクシー・ドライバー」とでもいうべき映画。かつて底辺から社会を見上げたデニーロが、今度は社旗の頂点を演じるのは、これも一種のコメディなのか。

 

生まれるべくして生まれた映画なのだろう。MCUが大成功してヒーローが強調された映画界に人々はお腹いっぱいだ。そしてデッドプールが風穴をあけ、ヴェノムが続いた。ダークヒーローたちの活躍は、純粋なヴィランにもスポットライトを当てる日が近いことを示唆していた。そして、恐るべき速さでこの映画が世に生まれた。ハリウッドのなせる技だろうか。観客の、世の中の動きに実に鋭敏に反応する。

 

たぶん、この映画の感想は割れるだろう。胸糞悪くて見ていられないという人と、アーサーに共感してしまう人だ。簡単に言えば前者が上流、後者が下流の人間なのだろう。僕は下流の人間だった。「優しくなければ生きている意味がない、強くなければ生きていけない」。そんな言葉を残した人もいる。世の中には優しくても強くない人もいるのだ。ハンター×ハンターのコムギは決して一人では生きていけない。アーサーはそんな人だった。そして誰も彼を活かそうとはしなかった。彼はその優しさ故に社会からはみ出したのだ。

 

この映画には「人間社会の限界」を感じる。社会に噛み合う、社旗に迎合できる人は生きていく。しかし、迎合できない人間もいるのだ。それだけ人間は多様なのだ。社会という規範からはみ出した人間はどうなってしまうのか。その悲しさが、この映画にあふれている。いや、その特異点が描かれている。

 

冒頭の引用はジョーカーとして目覚めたアーサーの言葉である。社会に「普通であること」を求められ、それが敵わなかった男の悲痛な叫びである。

 

ジョーカーはただの人間である。特殊な能力も、機材も彼は持たない。しかし、その類稀なるカリスマ性がジョーカーを惡の華へと昇華させていく。

 

ヒース・レジャーの行かれた悪役のジョーカーは最高だった。しかし時代が変わったのかもしれない。悪としての人間という、ホアキン・フェニックスのジョーカーを生み出したこの映画は時代に刻み込まれるべきだろう。

 

サブカルで食う 大槻ケンヂ

 

 

なんだかんだ言って、オーケンも「成功した人」なんだと思った一冊。デビューから最近のあれこれまで、オープンに書いてくれている。

 

じゃ、これを読んでサブカルで食っていけるかというと全くそんなことはない。その生き方には相応の覚悟が必要だし、オーケンも多分尋常ではない努力をしている。

 

つまり、「夢見てんじゃねーよ、バーカ」としっかりサブカルも現実の一側面であることを突きつける本なのだ。

 

「就職せず、好きなことだけやって生きていく」とは聞こえがいいが、実際は「安定した就職はできず、自分の好きなことさえ仕事の出汁として利用される」ということなのだ。そこで生きていけるのは一線を超えた人だけだ。そして一線を超えた人はその自覚がないのだ。それを人は才能というのだろう。

 

夢見がちな友達にオススメしてほしい一冊。この本を読んでも友達の夢が止まらならければ、諦めて友人の船出を見送ろう。その友は成し遂げるかもしれない。あるいはボロボロになって戻ってくるかもしれない。あなたの役割は、いずれの場合も友人をこれまでと同じように受け入れてあげることなのだ。

表現の不自由展に関する雑感

 とりとめない話だが、書いてみようと思う。

 

 僕自身は「表現の不自由展」を見ていない。だから中身のことはわからない。あくまでもメディアから得た情報を元に書いてみる。

 

 結論としては、この美術展はクローズされるべきようなものではないと思う。この展示には議論が巻き起こっている。いつの時代も議論を呼ぶものは物事の本質に迫りる重要なものだ。否定も肯定もどちらも、勝ったほうがこの国の倫理観の一部を形成するだろう。ならば、多くの人が見るべきだ。多くの人が自分の目で見て、聞いて、触って、感じて、議論すべきだ。ゆっくりと、堅実に、決して暴力に訴えてはならない。

 

 アートには様々な目的や意図がある。綺麗だなとか、可愛いなとか、かっこいいなとか、人を心地よくさせるアートはある。当然多くの人に受けるからそういうアートは世の中にあふれている。アーティストと言われる人たちも、どうしてもお金に困れば不本意でもそういうものを作る。ポジティブなアートは多いし作られやすい。でもそれがアートの全てではない。

 

 アートにはネガティブなものもある。例えば「我が子を食らうサトゥルヌス」というテーマを画像検索てほしい。ドン引きである。頭がおかしいとしか思えない。多分一番多く出てくる画像がゴヤが描いたものだ。この絵はプラド美術館に展示されている。ちゃんとした価値は知らないが100万円では買えないだろう。多分桁が2つ以上違う。

 

 あるいは、大槻ケンヂの曲を聞いてほしい。例えば「ノゾミ・カナエ・タマエ」とか「これでいいのだ」「蜘蛛の糸」なんかどうだろう。音楽の世界は目に見えない分敷居が低い。自由度が高い。多分、大抵の人は「うへぇ」と思うのではないか。でも、このバンド・筋肉少女帯のファンは多い。ああ、そうだピンク・フロイドのアルバム「Dark side of the moon」やQueenの「Death on two legs」なんかも大変ネガティブである。

 

 アートはポジティブである必要はないのだ。

 

 ではアートとはなんなのか。僕は一つのコミュニケーションであると思う。1つの作品は多くの人間にメッセージを与える。それに対する返答はさまざな形があると思う。良い作品ほど多くの返答を生む。数が増えれば様々な返答が含まれるのは当然だ。人はみな絶対的に異なるのだから。多様な返答の存在は、それだけ多くの人に感じ取られ、その返答を引き出した素晴らしい作品の証明なのである。名作こそ揉める。かつてクロード・モネの描いた日の出が「まるで印象を絵にしたようだ(まともな絵画ではない)」と批評家に酷評され、一方で印象派と呼ばれる絵画の大家がモネに追随し素晴らしい絵画を残したように。今も印象派の火は消えていない。

 

 僕は人を不快にさせることもアートの重要な要素だと思う。そこには「こういうことはしちゃダメですよ」「世の中にはこんな悲しいことがありますよ」「この問題をあなたはどう考えますか?」というメッセージがある。感受性豊かな立派な人間はこのメッセージを受け取っているはずだ。

 

 さて、今表現の不自由展は揉めている。その先鋒を切っているのが名古屋市長のようだ。天皇批判を筆頭に(僕は実物を知らないが昭和天皇を批判するような展示があるらしい)、美術展の中止を求めているようだ。税金云々の問題を出しているが、お金の出どころは展示内容とは関係ないと思う。ルールに則って出金したなら、それ以上は口を出すべきではない。ルールに則っていないならお金を出すべきではないし、内容うんぬんで出金を決めるならそれをルールに明記すべきだ。「ルールに則って出金するという決断」をしたなら後から口を出すのは基本的にはおかしいだろう。

 

 揉めている、ということは否定派も肯定派も作品からメッセージを受けている。作品は同一でも、その返答が人によって異なるのだ。その対立は議論に発展すべきであり、その先にこそより洗練された日本人の回答が生まれる。この貴重な機会を提供しているのが「表現の不自由展」だ。クローズしては議論は狭まる。回答はそれだけしょぼくなる。多くの人が見るべきだ。人々が何を思うのか、アートは社会の鏡である。対立を恐れては進歩がない。ぶつかり合う先に、新たな地平が開けるのだ。たとえそれは途中過程でも、踏み出した一歩は無駄ではないだろう。

 

 ここからは僕個人の意見だ。表現の不自由展という特異点を受けて僕個人の返答をしたい。

 

 まず、改めてこの展示はクローズすべきではない。多くの人が見るべきだ。理由は長々と上に述べた。なんなら全国を巡回すべきだ。海外に出てもいいと思う。

 

 次に「自分(あるいは知り合い)が不快だから展示には反対だ」という人にもう一度考えて見てもらいたい。なぜ不快なのだろうか?慰安婦問題?天皇批判?それはアーティストの間違った認識によるものかもしれない。それを正す努力は大切だ。コミュニケーションをしっかり取るべきだろう。しかし、それは「臭いものにはフタ」という考え方ではないだろうか。フタをしても臭いものは臭い。いつかは臭いも漏れてくる。本当に大事なことは臭いものの処理をキチンと考えることではないだろうか。全てに立ち向かう必要はないが、立ち向かうことを考えることは必要ではないだろうか。人間は失敗をするし、まるで考えないようなバカなこともする。そういうとこも含めて人間なのだ。

 

 もし心地よいものだけがアートとなれば、日本社会は衰退していくだろう。砂糖水に浸かりきっていては育つものも育たない。一定の批判や問題提起は必要なのだ。不快なことに真摯に向き合うことも大切だ。アートにはそういった役割がある。

 

 アートは現実から一線が引かれている。そこで問題に向き合うことは、現実で問題に向き合う力を養うために重要だ。「水清ければ魚棲まず」という。アートは時に毒であり汚れだ。表現の不自由展をクローズすることは、蒸留水でメダカを飼うようなものではないだろうか。

キングスマン

「Manners make the man」(ハリー)


これは「ジョーク」の映画だ。ただし日本人の生ぬるいジョークではない。王にもたてつく道化のジョークがこの映画には溢れている。

そして、そのジョークこそが日本が欧米に追いつくことすらできない一つの要因で有るように思われる。人間は失敗する。誰かが正さなくてはならない。批判無くして、社会の発展はありえないのだ。そこを受け入れる懐がある社会は進化していく。そうでなければ硬化して滅びるのみだ。

日本社会はどうだろう?100年後、1000年後、生き延びる批判力が、あるいは批判に耳を貸す健全な精神が、この国にはのこっているだろうか?

地球へ… 竹宮英子

はるか未来。人類は巨大コンピュータ・グレートマザーのもと統制された生活を送っていた。一方、人類の中にはエスパー能力に目覚めるミュウが生まれ始めていた。彼らは迫害され、人類の敵として地球を追い出されていた。ミュウたちは地球(テラ)への憧れをもち、故郷への帰還を目指しソルジャー・ブルーのもと戦いを始める。そんな彼らのもとについに現れる完全なミュウ・ジェミー。ソルジャーの後継者が現れたことで、人類とミュウの戦いは大きく動き始める。

壮大なSFであり地球を中心としたスペースオペラ。しかしそれでいてキャラクターの内面を深く描くと言うすごい漫画作品。のめり込むように読めた。宇宙とキャラクターが交錯するような美麗な絵もグッとくる。

人類から生まれた人類以上のものであるミュウ。いつかは現実にもそんな存在が現れるのかもしれない。そこに妙なリアリティを感じる。一読しただけでは読み取りきれないところが多々ある。きっと何度も読み返すと、見えてくるものがあるのだろう。