続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

ダークナイト クリストファー・ノーラン

 

ダークナイト (字幕版)
 

 

バットマンと宿敵ジョーカーの対決を描くノーラン監督の代表作の1つ。リアル寄りのSFに人間の心の闇を織り込んで物語を描く監督の手法はこのテーマにぴったりだった。バットマンもジョーカーも特殊な能力はない。この2人はただの人間なのだ。そして2人とも心の闇を抱えて戦っている。バットマンは闇を怒りと正義に変えて、ジョーカーは闇を狂気に変えて、ゴッサムで暗躍する。

 

この映画の最大の見所はヒース・レジャー演じるジョーカーの狂気っぷりである。ちょっとした歩き方や、何気ない銃の扱いまでほとばしる狂気が動きにあふれている。この週末には新作映画「ジョーカー」が公開され、ホアキン・フェニックスがジョーカーを演じるがこのダークナイトのジョーカーと比較されることは必然だろう。

 

印象的なのは顔を少し下げ、睨め上げる目線を送るジョーカの表情だ。そこには狂気の裏に隠れたジョーカーの怒りや悲しみが凝集されているように見える。対するバットマンは相手を見下げるシーンが多い。しかしその目はマスクの奥で虚ろに光るだけである。逆にその目には冷静なバットマンの陰にある狂気が滲み出てきているように思われる。

 

決して相容れない二人の超人。しかし、2人はともにゴッサムという闇の中でもがいている。ヒーローやヴィランというヒーロー映画の中でぶち壊すという、実にロックな映画なのではないだろうか。

月は無慈悲な夜の女王 ロバート・A・ハインライン

 

月は無慈悲な夜の女王 (ハヤカワ文庫 SF 1748)

月は無慈悲な夜の女王 (ハヤカワ文庫 SF 1748)

 

 

There ain't no such thing as a free lunch.

 

ハインラインによる本格SF。遠い未来、月は地球からの罪人が送られる監獄惑星となっていた。長い年月の中で月には独自の文明が発達し、地球文明は月の人民を制御し、穀物を搾取していた。進化したコンピュータ(電算機)は今や都市の中枢をコントロールし、度重なるハード増設の結果、月のメインコンピュータは自我を持つに至った。しがない技師のマニーは、ある時コンピュータ・マイクの自我に気づく。それは月社会が自らの権利を求める革命へ繋がっていく運命の出会いであった。

 

驚くべきはこれが1966年に発行された小説であるということだろう。今尚、この小説の描く未来は”未来”である。そしてそれは”有り得る未来”であるのだ。今から50年以上前に、ここまで未来を鋭く察せる作家が居たことにまずは驚くしかない。

 

この作品は、作品の世界が過去になるまで、燦然とSF界に輝き続けるのであろう。そして時代ごとに読み手の興味も変わっていくはずだ。

 

現代を生きる僕は、AIやディープラーニングが話題の昨今、自我を獲得した機械・マイクに興味を持たざるを得なかった。人工知能が目指すところは、驚異の計算能力でも、博覧強記の記憶力でも、完璧に論理化された思考回路でもない。それらに基づく”意思”なのだ。

 

機械が自ら意思決定を行う時、人間はその莫大な力を頼り、同時に怯えることになるのかもしれない。自我持つ機械は世界の光にも闇にもなる。本作は恐るべきリアリティでAIの力を描いた類い稀なる作品なのである。

アド・アストラ

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドに続いてブラピ主演映画を連続で。

演技ってもののすごさを感じる映画だった。ブラピはこんな演技もできるのか。

ワンス〜のブラピは切れていた。ナイフのようにとんがっていた。ファイト・クラブを彷彿とさせる社会の端で生きる男だった。アウトローだ。

対して本作の主人公を務めるブラピは、繊細で内向的な男を演じる。彼は偉大な父にに振り回される。家庭内でも社会に中でも、偉大過ぎる父は息子に平穏を与えることはなかった。それは宿命とでもいうべきものなのかもしれない。それを受け止めるには、表面的な強さではダメなのだ。体格とか筋肉とか、暴力とか破壊行為とか。そんな薄っぺらいもので社会に個人は立ち向かえない。

本作が描くのは「孤独」である。ブラピ演じる主人公は、父を探し、場合によっては仕留めるために太陽系の端っこに冥王星へたった独りで旅立つ。しかし、この行動や宇宙空間は舞台装置に過ぎない。この作品が描くのは物理的な孤独ではない。心の、精神的な孤独こそが本作の重要な位置付けなのだ。

人は誰かの理解を得て、あるいは誰かを理解して自分の立ち位置を確認している。もちろんそれは幻想的なもので、仮初めの共通認識を獲得しているだけかもしれない。それでも、人はその相互理解の中で生きている。それを完全に失うことはある意味で死ぬより辛いことなのだ。

本作の主人公は、人間社会から完全に隔離されることとなる。さらには(少なくとも表面的に)敬愛する父と壮絶な別離を遂げ、無限の宇宙でのサバイバルにその身を放り出される。恋人にも怒りをぶつけられる。

孤独とは物理的な距離ではなく心の距離なのだ。

ストーリーは意外と古典的だ。幸せの青い鳥といって問題ないだろう。宇宙空間でのサバイバルも、ゼロ・グラビティの延長上にあるといえる。

それでも本作に大きな力を与えるのはブラピの演技だ。その一点において、本作は価値ある一作だと思われる

新竹取物語 1000年女王  松本零士

 

新竹取物語 1000年女王 大合本 全5巻収録

新竹取物語 1000年女王 大合本 全5巻収録

 

 

子供の頃、テレビで見た銀河鉄道999はなぜか僕の心の中にずっと残っている。特別ストーリーを覚えている訳ではないが、壮大な世界観と、その無限の宇宙を旅する少年に心惹かれたのかもしれない。

 

さて、本作はそんな999のラスボス・プロメシュームの物語である。

 

相変わらず壮大なスケールで、惑星ラーメタルと地球の1000年に一度の闘いが始まる。プロメシュームはラーメタル人。地球を導く1000年女王あった。長い年月の中で地球人と心通わせることができるようになっていた彼女は、自分の星を裏切り、地球人たちを救うべく行動を始めるのだった。主人公・雨森始はそんな騒動に巻き込まれていく。

 

てっきり機械帝国の女王としてのプロメシューム誕生の物語かと思っていたが、全然そんなことはなかった。ただ、プロメシュームもかつては地球に住み、人の心を理解できる存在であったことが示される。

 

結局、彼女を機械の女王にしたものはなんだったのだろう。この作品も松本零士先生の中にある膨大な宇宙の歴史の一コマにすぎない。作品にない部分は想像してみるしかない。そして松本零士作品はその想像を楽しむことができるように作られている。非常に面白く、そして現代ではマネできない作品作りである。

 

 

土井善晴の素材のレシピ 土井善晴

 

土井善晴の素材のレシピ

土井善晴の素材のレシピ

 

 

「忙しくてもお料理することは良いことです」(著者)

 

レシピ本。私生活で色々あって自炊をちゃんとしようと思ってこの本を買った。とにかく、一日一品何か作ることにしている。その他はお惣菜とかだけど、せめて一品ぐらい一人暮らしのおっさんだって作るのだ。

 

そんな料理下手の僕にこの本はちょうど良かった。

 

食材ごとに1ページに4つの料理がまとまっている。非常にシンプル。そして限られたスペースに材料から作り方まで書いてある。しかもスペースの半分は料理の写真だ。つまり、非常に簡単なものしか載ってない。

 

カバンにこの本を入れて、スーパーへ向かう車の中でパラパラとめくって今日の一品を決める。調理には30分もかからない。全く自炊しておらず機能してなかった台所に、少しずつ調味料が増えてきた。

 

個人的には「ゆでもやしの肉味噌がけ」がとてもいい。簡単だし美味しい。栄養的にもいいらしく、コレを週1ぐらいで食べてると体の調子が良い。

 

下手な教則本よりも、この本を見ながらあれこれ作ってみるだけで料理の基礎みたいなものは身につくかもしれない。習うより慣れよ、である。一人暮らしの大学生にお勧めしたい。

熱帯 森見登美彦

 

熱帯

熱帯

 

 「生き延びることが大切だよ、佐山くん」

「なんとしても生き延びることだ」(栄造氏)

 

森見登美彦渾身の怪作。

 

物語は誰も結末を知らぬ謎の小説「熱帯」を巡り始まる。熱帯の物語を追う中で、語り手は入れ替わり、物語の中に物語が生まれていく。幾重にも重なる入れ子構造の中で、読者は幻惑の世界に誘われていく。

 

どちらかというと「きつねのはなし」や「宵山万華鏡」のような作者独特のホラーとファンタジーの入り混じる小説。物語にはなんども千夜一夜物語が例に挙げられ、この物語も同じように入れ子構造であることが示唆される。

 

この小説の目指すところはやはり「胡蝶の夢」なのではあるまいか。現実と虚構。その境界線とはなんなのか。はたまた境界線など存在しないのではなないか。現実に生きる我々は向こう側へ到達することはないのだろうか。「創作」をするものにはいつもこのテーマがつきまとう。軽快な作風を得意とする森見登美彦も例外ではないのだ。

 

その他、細かいネタが色々あるが、作者の小説家としての体験のようなものが滲み出てくるところが面白い。小説そのものを楽しみつつ、作者の生活が垣間見えるようだ。

勝つために戦え! 監督稼業めった斬り 押井守

映画監督、押井守古今東西の映画監督の仕事をぶった切る。そもそも映画とは何か?監督のするべき仕事とは何か?監督としての勝利とはなんなのか?そんなことにも触れながら、映画監督の世界を垣間見ることのできる一冊。

映画監督は自分の名前に全責任を置いて、とんでもなく金のかかる大仕事をする。ある意味アスリートのような、ギャンブラーのような、実に特殊な仕事だ。そんな中で生き抜くためには「負けないこと」が重要なように思われる。あとはどこかで受け入れられるオリジナリティの確立であろうか。自分の作りたい映画をなんでも作れるわけではないのだ。当たり前だけど

映画監督は特殊な職業ではあえうが、この本で押井監督が語る仕事の勝敗論は、業種によっては参考になるかもしれない。特にもの作りを仕事とする人には感じるものがあるように思う。