続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

太陽の王子 ホルスの大冒険

 

 「君なら人間になれる!人間に戻れるんだ!」(ホルス)

 

あの高畑勲が初監督し、宮崎駿が作画を担当したという伝説のアニメ映画。当時のアニメのおかれていたた立場もあり子供向け映画なのだが、正直このストーリーに子供はついてこれるのか。この濃密なストーリー展開、そして大人でもわからないような細やかな表現がこの作品を伝説としているのだろう。日本アニメを語るうえで外すことのできない一作だと思う。

 

とにかヌルヌル動く作画は宮崎駿の仕事によるところが大きいのだろう。特に動物の動き。本物かと錯覚する動きは、ディズニー映画に通ずるものがある〈宮崎監督は起こると思われる表現だろうが)。

 

ストーリーや子供にはついていけない(ついていけなくもいいい)表現はまさに高畑監督の得意とすることろだろうか。伝説の剣(エクスカリバーが元ネタか?)や個人の心に潜む天使と悪魔の擬人化(わざわざリスとフクロウにしてあるので解りづらい)といった凝った趣向がみられる。こういった観る側に教養を求めるところが本作の興行的失敗を招いたのかもしれない。

 

いろいろと宮崎駿監督の根底を築いた作品だと感じた。ここで学んだアイヌの伝承は「もののけ姫」へつながるのであろう。作中、人の心を動かす大きな存在として女性がでてくるのも後の宮崎作品につながると思う。

 

また本作では後半に「人の心の闇」スポットを当てる展開が続く。そこにこそ、映画のっ芸術性がやどるのではないだろうか。作り物の映画の世界に「理想の人間」を描くのは容易い。むしろ、その存在を認められない暗闇にこそ価値があるのだ。本作もその系譜んい位置すると考えていいだろう。

1984

 

1984 [DVD]

1984 [DVD]

 

 

小説も読もうとしたけれど、真ん中ぐらいであきらめた。怖すぎて、人を信じる気持ちを失いそうになったのだ。読めなかった。

げんじつのな

映画ではなら、もう少し先へ進めた。それでも、かなり苦しい時間ではあったのだけれど。

 

この映画はSFである。人間の知的な残虐性が最大限発揮されたなら、その支配下にあるものはどうなってしまうのか。

 

現実の世の中は映画の中よりずっといい方向に向かっている。それは多くの先人が、世の中をいい世の中を作ろうとしてきた結果なのだろう。裏を返せば、人間はなにかのはずみで映画のようになってしまうことも十分考えられるのだ。

 

だから、このディストピアを真摯に受け止めないといけない。嘘っぱちの世界と笑ってもいい。でも、この世界が現実に起こりうる可能性を捨ててはいけない。恵まれた現代の僕たちには感じにくくとも、このディストピアの芽は世界中に芽吹いている。ただ、多くの人間がそれを丁寧に摘み取っているから世界は今の顔を保っているのだ。

 

生きることの苦しみはどこから来るのか。それはよい社会の確立にあるのかもしれない。

読者ハ読ムナ(笑): いかにして藤田和日郎の新人アシスタントは漫画家になったか  藤田和日郎、飯田一史

 

 「ありゃ。・・・もう行っちまったかぁ・・・」(藤田和日郎

 

一流漫画家・藤田和日郎とその初代担当・武者正昭が新人漫画家へ放った言葉をまとめた一冊。ぼくは漫画家志望ではないが「モノ作り」に携わるものなら読むべき一冊だと感じた。

 

藤田和日郎のデビュー作「うしおととら」はぼくが小さい頃貪り読んだ少年漫画だ。ぼくにとって少年漫画とは「うしをおとら」である。だから、以下の文章にはがっつりひいき目が入っているだろう。それでもよければ読んで欲しい。

 

藤田の制作理論と、武者の人気を得る理論がこの一冊に集約されている。同時に。漫画の現場というものがこの2人の関係性から垣間見える。漫画とは爆裂な魂の表現と、それの一般化なのだ。前者を漫画家が、後者を編集者が担う。少なくとも、それが日本の漫画制作の現場である。

 

漫画家を目指すなら、この本を読むべきだろう。だが、これも業界の一端に過ぎないことを忘れてはいけない。この一冊を根拠に漫画家をあきらめるようなことが有ってはならない。

 

日本独特とされる漫画の現場だが、その実、もっとも純粋なモ作りの現場だと感じた。作りたいモノと読者が求めるモノのせめぎ合い。その最大公約数をめざす漫画家と編集者のせめぎ合い。これほど健全なモノ作りの現場が有るだろうか。漫画家はすごい。そのことをわからせてくれる一冊だ。

夜は短し歩けよ乙女

 

「それにしてもそんなにパンツを履き替えないで人間は生きていけるものなのですね」(黒髪の乙女)

「底面病気になりました。しかしどっこい生きてます」(パンツ番長)

 

3度めの鑑賞。この作品になにか「自由」を感じるのはなぜだろうか。おそらく大学生を主要キャラクターとして扱っているからだと僕は思っている。

 

日本人は様々な観念に縛られて生きていいる。現代日本において小~高校生は様々な観念に縛られている。あるべき形を求められている・逆に大学生はその観念から開放された存在だ。自由で無防備な存在と言える。

 

自由で無防備。それが日本の大学生なのかもしれない。二十歳を超えてなお、日本の大学生はそんな存在である。ぼくにはそれがいいのか悪いのかわからない。

読書について ショウペンハウエル著 斎藤忍随訳

 

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

 

 

もともとただ自分のいだく基本的思想にのみ真理と生命が宿る(著者)

 

個人的には衝撃の一作であった。本を読むとはどういうことか。思索するとはどういうことか。著者一流のストイックな思想がここにある。

 

また訳も大変わかりやすく素晴らしい。著者も以下のように書いている。

 

大切なのは普通の言葉で非凡なことを言うことである(著者)

 

ぼくはこの本を読んで初めて「教養」と呼ぶべきものに出会ったと思う。日本人に、今必要なものはこれだ。

シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム

 

 

 

ぼくはシャーロック・ホームズ(原作)のファンです。以下はその前提でお読みください。

 

ごめんなさい。開始10分で観るのをやめました。個人的には面白い、面白くない、以前にアウトです。ホームズファンの触れてはいけないところに触れている。

 

なにがアウトかといわれれば「アイリーン・アドラーを画面に映した」ことです。シャーロッキアンには言うまでもないが、アイリーンは「ボヘミアの醜聞」に登場し、ただ一人あのホームズを負かした女傑である。それ以降、ホームズのなかでは「あの女(the woman)」とは彼女を指すことになるのだ。

 

しかし、この事件によりアイリーンはアメリカに渡ってしまう。断定はできないが、まず2度とホームズと会うことはないであろう。

 

そんなアイリーン・アドラーをこともあろうに冒頭で画面に映し、しかもホームズと接触させた。しかもアイリーンはホームズに逆転勝利する。暴力を借りて、だ。ボヘミアの醜聞を読んだものであれば、アイリーンが暴力に訴えるタイプでないのはわかるだろう。そして、何があろうとアメリカからロンドンへ戻るタイプでないこともわかるはずだ。アイリーンとホームズが本作のような形で接触するのは原作ファンにはありえないのだ。

 

前作は結構原作に忠実だった。ロバートダウニーJrが演ずるホームズも原作をかなり意識していた。少なくとも「シャーロック・ホームズの冒険」と「緋色の研究」を読んだ者作品であったと思う。ホームズらしさをうまく抽出した作品だった。監督は同じなのにどうしてこうも違うのか?むしろその謎をホームズに解いてもらいたい。

 

 

博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか

 

 

司令官がイカレて冷戦が勃発しそうになったらどうなるかというブラックコメディ映画。米軍にソ連基地に対する爆撃命令が出されてから、ソ連基地への爆撃までおよそ30分ほど。この作品はその30分ほどの短い時間を中心に群像劇が描かれる。

 

邦題がちょっと残念だ。現代は「Dr.Strangelove」である。「博士の異常な愛情」ではなく、これは人名なのだ。そして、タイトルにもなっているStrangelove博士は意外と本編で出番が少ない。最もインパクトはかなりのものだが。

 

この映画でキューブリック監督は何が描きたかったのだろうか?ぼくは「戦争も人の活動である」ということではないかと思う。戦争という言葉だけ聞くと、本の記載だけをみると、どうしても人間味が抜け落ちる。でも、実際にに戦争をしているのは人間なのだ。みなその悲惨な結果から、ついつい眼を背けがちだが、戦争も人間の活動の結果である。そこに疑いの余地はないだろう。この映画は「眼を背けるな」という監督のメッセージなのかもしれない。

 

余談だがストレンジラブ博士役のピーター・セラーズは、なんと一人3役の出いぇんである。しかも、いずれも物語上かなり重要な役である。ぼんやり観ているときは全然気が付かなかった。これぞ役者の力だろう。