続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

ブログ読者の皆様へ

 ZOOZです。まず、なにはさておき、このブログを見ていただいている方々に感謝します。その上で、大変申し訳ないんですが、しばらくブログの更新を休止したいと思います。いや、実際には、今年に入ってから休止しています。ぼくのささやかな文章を楽しみにしていた方が居れば、申し訳ない。

 理由は、単純にリアルの生活が忙しくて余裕がないためです。このブログを始めるにあたり、ぼくは13本の下書きを一応用意しました。本や映画の情報を毎週アップロードするブログを目指しました。とはいえ、暇がない時もあるから、そのためのストックを用意したわけです。保険をかけておけば、永くブログを続けていけるだろうと。しかし、現状ではそのストックは消費しつくされ、ぼくには余裕がありません。


 なので、しばらくブログの更新をお休みしてストックを蓄えることにしました。並行して、ぼくの働き方も見直していきたいと思います。変な話、若かりし頃のぼくは働くことこそが正義と考えていたように思います。その他はすべてオプションなんだと。しかし、実際に仕事に取り組む中で、ぼくの価値観は大きく揺れ動いています。ぼくが何にたどり着くのか。それはまだ解りません。そのためにも、本を読みたいと思います。映画を観たいと思います。一方で、それらをめんどくさいと言う気持ちもあります。だから、たぶんぼくには時間が必要何だという結論に至りました。自分自身で用意したものとはいえ、ノルマに追われることなく、自分の意思のままに読む・観る。それらがぼくには必要な、そんな気分なのです。

ぐるりのこと 梨木香歩

 

 

 「西の魔女が死んだ」で鮮烈なデビューを果たした著者のエッセイ。自身の身辺の観察から派生して、深い考察が世界のあり方にまで触れていく。

 

 申し訳ない。ぼくはこの本を語る資格はない。どうにも著者の言葉はぼくの体の表面で滑って流れてしまい、深い理解をすることができなかった。原因はきっと著者のぼくのバックグラウンドがあまりにも違うからだろう。ぼくには、著者と同じ視点に立つことがどうにもできないのだ(著者はイギリスで生活し、また歴史や文学史への造詣が深い・・・がぼくにはそれが全く欠けている)。

 

 とはいえ、「西の魔女が死んだ」に通づる、なにかこう「人の在り方」を問いかけてくるような文章は健在だ。著者の文章には人が生きるということの根本を再確認するような趣がある。そして、それは現代を生きる我々からすると、供給してもらわなければ困る物なのだ。

 

 また、読書家である著者はさまざまな文献を引用して論述を続けてくれる。不思議なことに、ぼくにはこの引用箇所が響いた。原文の引用を読むと、どうにもその本が読みたくなる。そんな気持ちがする。これはつまり、それだけ著者がクリティカルな引用をしているということだろう。ものの本質を貫いているのだ。しかし、本質だけで物事は理解できない。ぼくにはこの引用文献たちを通読する必要がある。なんとも、因果な本を読んでしまったものだ・・・と苦笑いしている。

 

 

暇と退屈の倫理学 國分 功一郎

 

 

だから余暇はもはや活動が停止する時間ではない。それは非生産的活動を消費する時間である。

 

東京学で教鞭をとる著者が、暇と退屈をテーマに語る哲学の一冊。

 

哲学書と聞くとか苦しい印象を受けるが、本書は非常に読みやすい。一般大衆を読者として想定して一言一句を選んでいることが読んでいるとよくわかる。カッコ良い専門書にしたければいくらでも難しい用語で装飾できるのに著者はそんなことはしていない。

 

「なんで暇と退屈なんてくだらないものを取り扱うんだ」と多くの人は思うかもしれない。しかしきっと、この本を通読すればその考えはどこかに消えてしまう。暇と退屈こそ、人間が生きるにあたって最も重要なことのように思われることだろう。この本は、なにか価値観をひっくり返すようなパワーを秘めている。

 

個人的には、現代の欲望のあり方についての考察に度肝を抜かれた。著者が語るには、現代社会は消費社会であるという。そこでは、物を消費しているようにみせかけて、人々は「価値や概念を消費させられている」という。つまり、極端な言い方をすれば人々は需要に基づいてものを買うのではなく、造られてしまったもの(売られてしまったもの)を企業のマーケティングによって買わされているのだ。

 

「そんなばかな。私は私の意志で買い物をしている」という人が多いと思うが、一方で衝動買いをしたことがない人もほぼ居ないだろう。現代社会においては、人間は欲しいから買うとは限らない。売っているから買ってしまうのだ。

 

とはいえ、このあたりはまだまだ序章という感じで著者の考察は人類の歴史や人が生きるということにまでおよんでいく。「暇と退屈」という切り口には、それほどの可能性があるのだ。

 

人間に興味のある方にぜひ読んでもらいたい一冊。

 

 

サマータイム 佐藤 多佳子

 

 

 少年少女を中心とする群像劇。ピアノの話とか、恋愛の話とかをとりとめもなくしていく。

 

 個人的には苦手な一冊。理由は恋愛が物語の軸となっているためである。まぁ、これは個人の受け取り方の問題である。ぼくには合わない。

 

 恋愛感情はほとんど狂気なので、あたりまえではあるのだが登場人物は支離滅裂な行動をとるのみである。果たしてこの小説に理性的な人間はいるのだろうかと思うぐらい。とはいいえ、自分が少年少女のときに理霊的な人間だったかと言われれば否である。つまり、この一冊にはリアリティのあるある少年少女が描かれているのかもしれない。ぼくは歳をとっていろんな経験をしてしまったので、むしろこの小説に出てくる登場人物をすごく気持ち悪い存在としてしか感じることはできない。理性の光・・・とでもいうべきものが彼らにはないように思われる。とはいえ、世間の評判を踏まえれば、たぶんぼくのほうが異端なのであろう。

 

 どうにも、恋愛というものは苦手である。たぶんロジックではないからだろう。ぼくには受け付けないが、そういう思考に価値があることはよくわかる。これからの時代に必要な思考かとも思う。ただし、とても危うい。この本に心震わせる人たちが健やかな心の持ち主であることを祈っている。

手紙のなかの日本人 半藤一利

 

 

 歴史探偵・半藤一利が歴史のなかの人々の遺した手紙から、その人となりを読み解く一冊。

 

 なるほど、これは大変面白い試みだと感じた。手紙というのは基本的にプライベートなものであり、それを通して歴史上の人に触れることは、その人物に親近感とリアリティを感じることができる。教科書に載っているあの人も、間違いなくこの世界に生きていたことが肌でわかる。

 

 個人的には、率直にあるがままに生きた良寛禅師のさっぱりとした人生に憧れたり、小林一茶のまったく知らなかった一面に驚いたりした。人を知るというのは教科書の年表で名前を確認することではないのだ。

 

 残念だったのは、ぼくの能力がない故に、引用してある手紙が、古い時代のものだとうまく読めないし、読めても意味があんまり理解できない。著者が現代語訳を添えてくれている場合も多いが、それはそれで微妙な言葉の機微みたいなものがうまく拾いきれない。歴史の知識が乏しいこともあって、どうにも歴史探偵の解説がもうひとつ理解しきれない印象であった。・・・つまりまだぼくが読むには早い本だったのかもしれない。

 

 ところで、表紙などに非常にシンプルな線画で人物のイラストが載っている。これがなんだかともても良い。素朴でやわらかい感じで「歴史上の人物」というものから堅苦しさをとっぱらってくれる。内容とよくマッチした挿絵で、とてもいい雰囲気で読書することができた。

パンク侍、斬られて候 町田康

 

 

 江戸時代・・・のような世界。浪人・掛十之進はふらりと黒和藩に辿り着く。世界は腹ふり党の脅威に脅かされていた。阿呆になって腹をふることで世界からの解脱を計るその新興宗教は、国を脅かす存在であったのだ。掛は一体何者なのか・・・?

 

 えーと・・・わからん。なんだこれは。何が起きているのだ。ジャンル分けもなんともし辛いが、強いていうならばSFなのか。一言で言えば、整合性のある支離滅裂なお話し・・・というところか(意味不明)。正直、本文を読んでも何もわからなかった。

 

 解説を読んで気がついたのは、この小説は現代文の中に古語的な、忘れ去られた日本語が入り混じる、異次元小説であるという事だ。なるほど、それがこの作品の狙いなのか?失われた日本語を現代のセンスに落とし込む作業こそがこの作品の醍醐味なのか?それになんの意味があるのか?それは面白い事なのか?全然わからない。ドラッグ文学ってやつか?

 

 というわけで、現時点で僕にはこの小説が何一つ理解できない。なのでおすすめも否定もできない。世の中には意味不明なものが存在する。そういう事だと思っている。

山に生きる人びと 宮本常一

 

 

 民俗学者宮本常一によるかつて日本に存在してた山の中で生活したり、山の中に村を形成した人びとへの考察。

 

 たぶん、現在ではこの本に扱われる山の人びとはもう存在しないと思われる。著者が調査をしていたころですら、かろうじて痕跡をつかむのがやっとのようである。山中の村は徐々に規模縮小し、人びとは里におりて平地民になっている。わずかなハグレモノをみつけるか、土地の古老に話を聞くことでしか情報は得られないのである。

 

 いつのころからか、ぼくはこの山の人々に興味を持った。おそらく同じ著者の名著「忘れられた日本人」を読んだためであろう。現在の日本人は非常に均一な人びとだが、かつて江戸時代ぐらいまでは日本にも「いろいろな人」がいたのだ。そして、この本に扱われる山の人びとは歴史に記されるような存在ではない。狩人、杣人、鉄山師、落人・・・かれらは歴史の影にあって、平地の里との関わりはうすかったようだが、それでも彼ら抜きに古い日本社会を語ることはできない。その意味で、著者がその記録を残したことには大きな意味があると思われる。

 

 我々のルーツを辿るとき、きっとこの一冊が必要になるだろう。ところで、著者は附録の中で山の人びとの成り立ちから発展し、縄文時代から弥生時代への移り変わりに論を展開している。いわく、縄文人焼畑農業の知識をもち、この縄文の人々こそが山の人びとの祖でああるのではないかと。少々飛躍した考えかもしれないが、そう考えてみることも面白い。