続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

Once upon a time in Hollywood クエンティン・タランティーノ

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド オリジナル・サウンドトラック

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド オリジナル・サウンドトラック

 

「You are a good friend」(リック)

「I'm trying」(クリフ)

 

 鬼才タランティーノ監督が描く60年代ハリウッド。まさにタイトルに偽りなしという感じで監督の強さを感じる映画だった。ブラピとデカプリオのW主演もこの監督の力あってこそだろう。

 

 ストーリーらしいストーリーをあえて描かず、群像劇的にかつバラバラに描く手法はパルプ・フィクションレザボア・ドッグスのような雰囲気でタランティーノここにありという感じ。

 

 一方で、エログロ描写が控えめなのは(無いわけではないが)タランティーノも丸くなったなと感じさせる。ある意味円熟してきたということか。

 

 個人的にはここ最近では最も役者の演技の映える映画だった。浮き沈みに振り回されるリックを演じるデカプリオも、硬派に生きるクリフを演じるブラピも控えめに言ってとてもいい。

 

 そしてやはりタランティーノはやりたい事をやる監督だ。本作では60年代ハリウッドをリアルに描き、その時代を生きた人々と事件を描くという事をしっかりやっている。ここら辺、スポンサーとかと揉めるとこだろうが、それを押し切る力がこの監督にはやっぱりあるようだ。

 

 結果として、最近のCGまみれの映画に対する一つのアンチテーゼとして素晴らしい作品ではないだろうか。時代が後から評価する。そんな作品だとぼくは思う。

博士と彼女のセオリー ジェームズ・マーシュ

 

 

 車椅子の天才物理学者・ホーキング博士の半生を描く映画。主演のエディ・レッドメインの迫真の演技はまるで本物のホーキング博士のようだ。レッドメインはこの役でアカデミー賞をはじめ様々な賞を受賞している。

 

 もちろん偉大な頭脳の持ち主であったという点は大きいが、それでもALSという難病を抱えてなお研究の最前線で活躍できるということに、イギリス社会の素晴らしさを感じる。周囲の人々の支えが大きく、とくに愛妻ジェーンの存在はとても大きい。

 

 ホーキング博士の強さもさることながら、その暮らしを支えてきたジェーンの強さにも驚かされる。

 

 原題は " The THeory of Everything"。これを邦題では「博士と彼女のセオリー」と大きく表現を改めた。最近の映画ではよくあることだが、だいたいこの手の改題は失敗する。しかし、本作ではむしろ原題より深く、切れ味のよい良いタイトルになっているのではないだろうか。

 

 しかしホント、イギリスっていい国だな、と思った。

光圀伝 冲方丁

 

光圀伝

光圀伝

 

 

書は、如在である(明窓浄机より)

 

 冲方丁が描く歴史もの。黄門様でおなじみ水戸光圀をと彼が生きた時代を描く。戦乱の世が終わり、徳川幕府が国を治める泰平の時代が幕を開ける。文武に才能余りある光圀はいつか己の大義を見出し、そして文治の世を目指し熱く生きる。

 どうも「マルドゥック・スクランブル」のイメージがあるので冲方丁はこんな歴史物もかけるのかとびっくりする。でも、本書にも出てくる安井算哲を主役に据えた「天地明察」も書いているし、不思議なことではないのかも。ついでに調べてると「12人の死にたい子供」も冲方丁の小説であった。なんでも書けるな、この人は。

 読みやすい文体でサクサク読める。歴史物だと変に古い言葉に拘ったりして読みづらいこともあるのだけれど、現代の言葉に置き換えてくれているですんなりと物語に入り込める。ちょっとうろ覚えだが光圀の感想に「ウザい」という表現が使われていて、攻めてるなーと思ったり。

 ぼくは歴史に疎いので、この物語がどこまで史実に忠実なのかわからないが、それでも当時の時代の風を感じることができたと思う。時代のうねりの中で人は皆自分の人生を生きている。大名だってのほほんと生きているわけではない。いや、大名だからこそのほほんとしていられないのか。江戸時代の大名はある意味将軍に仕え藩の民を牽引する中間管理職だ。

 本書のテーマの一つは「義に生きる」ということであった。光圀は兄から藩主の座を奪ったことに苦しみ、兄の息子を次の藩主とすることに義を見出す。こういう感覚はもはや現代には失われていると思うのだが、改めて思うと日本人らしいなのかもしれない。儒教の教えに始まり、日本国内で独自に醸造された感覚だ。

 本書の中でも光圀は日本人のルーツを考え、葬式を儒式で行う話が出てくる。仏教式の葬式が当たり前の世の中で、儒式に則った葬式を行うのは多くの困難があったようだ。

 現代の僕たちはどうだろうか。国際化が進み、多様化し、変わっていく世の中だが、無闇矢鱈に新しいものに飛びついてはいないか。むしろ世界に飛び出していく中で、自分の足元にあるものがなんなのか、それを知らないままになっている気がする。自分たちがどこから来て、どこへいくのか。そんな目線が必要だと感じた。

ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬

先に次作を見ちゃったけど遡る形で視聴。

前作は良質なコメディって感じだったんだけど、今回はただのギャグ映画だった。これが本来の形なのかもしれないけど、やっぱり批判精神満載のコメディのほうが面白いんじゃ無いだろうか。

華岡青洲の妻

華岡青洲の妻 (新潮文庫)

華岡青洲の妻 (新潮文庫)

世界初の麻酔を使った外科手術を行った、日本が誇る医の巨人、華岡青洲。その妻なった人物を中心とした小説。麻酔開発の実験台に己の身体を使ってくれと夫に願い出る。果たしてその理由とは。

タイトルは「妻」だが実際の中身は嫁姑問題を中心に描かれる。いつの時代もこればっかりはどうしようもないものか。しかし、時代に名を残す偉人の周りでは、嫁姑問題も得意な形で進行する。

「家」という概念のあり方にも作中では丁寧に触れられている。現代の「個人」を中心とした世の中の捉え方と違い、華岡青洲の時代には個人は「家」のパーツであった。個人の浮き沈みよりも家の盛衰が大事であった。偉人は「家」が生み出すものだったともいえる。偉人を生み出すからには家の雰囲気も独特である。世の中から切り離されているわけではないが、浮世離れしている。かつての「家」の雰囲気をよく感じられる一冊だった。

市民ケーン

 

 

 

 「バラのつぼみ。」謎の言葉を残し大富豪ケーンは死んだ。その言葉の意味はなんなのか。とある新聞社ではその意味をめぐり社を挙げての取材が行われる。そして、客観的に、多面的な視点から、ケーンという一アメリカ市民の姿が解き明かされていく。

 

 こんな映画他にはないし、今では作れないと思わされる一作。エンターテイメントであること以上に、人間の切る姿を裏の裏まで描いている。強さも弱さも、エゴも、優しさも、全部ひっくるめて人間なのだ。この映画は人間を描いているし、人間を描いしてしかいない。

 

 今のはハリウッドにこの映画は作れない。だからこそ、見る価値があるのではないだろうか。

この世界の片隅に

 

この世界の片隅に

この世界の片隅に

 

 

最近の日本映画では考えられないロングランを達成した一昨。今日でちょうど1000日だそうだ。ざっと2年半。とんでもないことである。

 

映画は、常に時代(社会)の鏡である。特にヒット作は、その時代をはっきりと写し出す。この映画のヒットはどんな時代を反映しているのだろうか。もちろん映画の出来は良いし、クラウドファンディングに支えられて制作されたという点も注目を集めるところだと思う。でもそれだけでここまでのヒットにはならないだろう。

 

ヒットの理由の一つはリアリティであると思う。まるですずさんが本当に実在していたと錯覚するような感覚がこの映画を観た後にはある。当然、全てフィクションなのだが、それだけ地に足つけた映画作りがされているのだろう。

 

多分スターウォーズに始まるSFブーム以来、映画はフィクションの世界を作ることに傾倒してきた。映画を見るとき人々は現実ではない何処かへ連れて行ってもらえることを期待していた。それは現実の苦しさからの逃避であったのかもしれない。

 

時間とともに世の中はずいぶん変わってきた。なんだかんだ言って日本の社会も豊かになった。現実を生きる苦しさが無くなった訳ではないが、多少はマシになった。そしてそろそろみんな現実からの逃避に飽きてきたのかもしれない。

 

「現実にあった(かもしれない)こと」に世の中の興味が移ってきたのかもしれない。夢のような世界や抜群にかっこいいヒーローよりも、ごく普通の人の暮らしを観たい。現実世界での出来事を知りたい、ということだろうか。