続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

ぼくが落語を好きなわけ

 ぼくは落語が好きでしょっちゅう聴いているのだが、この楽しさを共有してくれる友達はあんまりぼくの周りにはいない。どうも「落語は古臭い」と認識しかされていないところがある。そんなヒトに落語の楽しさを知ってもらうため、まずはぼくが落語を好きな理由をまとめてみようと思う。主に以下の3点があげられるのではないだろうか。

1.落語はトークの勉強だ
 落語ほどトークの勉強になるものはないと思う。くだらない話から真面目な話まで、落語には様々なパターンがある。いろいろな話を知っていると実際の世の中のこともどっかで落語で聞いたことがあるような感じがするのだ。「日の下に新しいものはない」ともいうし、ちょっとした話でも落語の流れや間を参考にすれば、ずいぶんおもしろおかしく話せるものだ。どんな「枕」から始めて行って本題に入り、どうやって「落とす」のか、それだけとっても落語は実に巧みなのだ。

2.噺家の個性
 落語には決まった演目がある。おんなじ話を何回も聞いたってつまらない、というヒトもいるかもしれないが、まぁそんなことは言わずに気に入った話があれば噺家を変えて聞いてみてほしい。別に比べてみろ、というわけではない。しかし、噺家が変わるとこうも話が変わるのか、という印象を受けるはずだ。それぞれの噺家がそれぞれの個性を生かして話をするのも落語の魅力であると思う。

3.ある種の芸術性
 こんなことを思ってるのはぼくぐらいかもしれないが、落語の話芸は少なからず芸術性を伴っていると思う。無駄な要素を極限まで省き、それでいて聞き手には話の情景が目に浮かぶかのような話をするというのはなかなかできることではない。特に古典落語がそうだ。誰だったか「落語は絵画だ」といった噺家もいるらしい。まるで傍で見ているかのようなイマジネーションを起こさせることこそが落語の本質だということだろう。ぼくはこの言葉を強く支持したい。この芸術性はいわゆる「時の試練」によって磨かれたものだと思われる。何度も話を繰り返すうちに、弟子から弟子へと話が受け継がれていくうちに、少しずつ話が変化して、話のなかの余分な要素はそぎ落とされ、本質だけが残って研ぎ澄まされるのだ。こうやって磨き上げられた話は、なるほど・・・と感心してしまうぐらいうまくできているものなのだ。


 なんだか調子に乗っていろいろと書いてしまった。もしこれでちょっとでも落語に興味の出た方は、とりあえず下の動画でも見てほしい。ちょっとでもおもしろいと思ってもらえたら幸いだ。
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