続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

ドグラ・マグラ 夢野久作

 

 

胎児よ 胎児よ なぜ踊る

母親の心がわかって おそろしいのか(巻頭歌)

 

2度目の読破。大丈夫。狂ってないよ笑

 

昔読んだときは部分部分は理解できるし面白いが全体を通してみるとわけがわからない怪作という感じだったが、2度目は先が多少覚えているからか少し印象が変わった。特にこの作品が多重な入れ子構造になっていることを理解して読み進めることができたので、今読んでいるのが何なのか混乱を抑えることができたのは大きい。

 

一応、これはミステリなんだろう。ただし記憶喪失の主人公が「私とはだれなのか」を探求していくという、探偵と犯人が同一で、しかも信用できない人物の主観で描かれるという実に尋常ではないミステリなのだ。

 

「私」以外の登場人物もどこまで信用していいものかわからない。そもそも、登場人物の言動は「私」を通して語られるし、主要人物の正木博士と若林博士はどうもうさんくさい精神科医だ。重要な鍵を握るとおもわれる呉モヨ子も精神病患者だし。

 

つまり読者にとってはミステリの基本である「正しい情報だけ」が提示されるわけではない。いろいろな意味でねじ曲がった情報が提示されている可能性が高い。読者はそのねじれを解きほぐし、正しい情報を集めて「私」の正体を探し求めていく。そして同時にまるで自分自身が「私」と同化したような気分を味わうのだ。

 

なるほど。読者は本を初めて読むとき何も知らない。本の世界に対して全くの無知であり、しかし言語や思考能力は持っている。これは記憶喪失から目覚めた瞬間に似ている。若林博士・正木博士が提示する様々な暗示から正体を探る。「私」の語りにガイドされることもあるが同じ思考の道筋をたどることになるのだ。

 

結局「私」は誰なのだろうか。

 

作中では正木・若林博士が「私」に執拗に暗示をかけてくる。それは明らかに「私は呉一郎」であることを示唆している。しかし、作中「私」がその暗示を受けて「それじゃあ、やっぱり私が、呉一郎なのですか?」と問いかければ、正木博士は「違う」と答える。曰く「自分が呉一郎ではない」という自覚をしっかり持って話を聞けというのだ。しかし、なおも続く暗示はやはり「私=呉一郎」を指している。

 

これはどういうことなのか。博士たちは「私」にどうしてほしいのか。ぼくは「博士たちは『私』に自分自身の気づきで、『私=呉一郎』という結論に達してほしい」のではないかと思う。つまり、暗示を受けた瞬間にそう思うというような誘導された可能性の残る形ではなく、最終的に一人でじっくり考えた結果「ああそうか。私は呉一郎であったのか」と結論付けてほしいのではないだろうか。つまり、他人の話に誘導されて表面的に感じるのではなく、心のそこからそう理解してほしいのだ。

 

なぜか?

 

「私は呉一郎ではない」からではないだろうか?

 

つまり博士たちは、記憶喪失という稀有な機会を利用して、全く関係の無い赤の他人を呉一郎であると思い込ませたいのではないだろうか?それこそが博士たちの実験であると考えられるのではないか。作中では正木博士の提唱する「心理遺伝」の証明のため博士たちは「私」を利用して実験してると語られる。心理遺伝とはすなわち「先祖の心や記憶が子孫に遺伝する」とのトンデモ説である。しかし、この実験の目的はあくまでも博士たちから「私」に語られたに過ぎない。博士たちが本音を「私」に話す必要はまったくないのだから、この実験目的も嘘なのではないだろうか。博士たちが「私」を使って実験していることは間違いないだろう。なにか目的がなければ作中にまきおこる面倒な出来事の数々は説明できない。では真の実験目的とはなんなのか?

 

ぼくは「記憶喪失を利用することで自身を他人であると誤解させることが可能であることの証明」ではないかと思う。つまり人格の転移ともいえる。通常、人間は自己と他人を明確に境界し区別している。しかし、記憶喪失という特殊な状況を活用し、適切な刺激を与えることで個々人の境界を取り払い、自己を別人と差し替えることができるのではないか。これこそ博士たち、いや正木博士の証明せんとする、非唯物学的エビデンスではないか。心や記憶といった形のない、情報ともいえるものが、個人から個人へ移すことができるのではないか。そこに物質的な移動は全く無いにもかかわらず・・・だ。それこそ唯物学的な、西洋の科学(サイエンス)をくつがえすものではなかったか。

 

長くなったが、もう一度本題に戻ろう。「私」とはだれなのか?

 

ぼくは「開放治療場で怪我した使用人の男」こそ「私」ではないかと思う。だれそれ?となる人もお多いかと思うが、正木博士が語る開放治療場で起きた一大事(詳細不明)に関して、どうやら使用人がいたことがうかがえるのだ。作中、後半でこの使用人がはしごから落ちて怪我したため、人手が足りないと嘆く別の使用人が出てくる。わずか一文で、その後一切物語にかかわらない人物・・・ミステリとしては超怪しいではないか?

 

梯子から落ちれば頭をうつこともあるだろう。当たりどころによっては記憶喪失になることもあろう。小説の設定としては、まぁ有りだろう。その記憶喪失者を利用して、正木・若林両博士は「人格の転移」を証明せんとしているのではないか。もしかしたら梯子から落ちるという事故すらも博士たちの仕込みであったかもしれない。博士たちは白紙となったその脳髄にありとあらゆる暗示を尽くして「私=呉一郎」を植え付けようとしている。これが成功すれば前述の目的が達成されるのだ。人はその過去も踏まえて別人になってしまうことができる。これほど恐ろしい実験もそうないであろう。その手法を確立することは博士たちに名声と権力を与えると考えて間違いない。記憶喪失は特殊な状況ではあるが、精神医学の権威たる博士たちなら薬物などを利用して記憶喪失を誘発することも難しくないだろう。

 

というわけで、本作のぼくの解釈は「開放治療場で梯子から落ち記憶喪失となった使用人を呉一郎と思い込ませるため正木・若林両博士が仕込んでいる実験を『私』目線で描いたもの」である。もちろん答えがあるとも思えないが、一つの可能性として理解していただけたらありがたい。

 

 しかしまあとにかくに難解を極める作品である。狂ってないといっても狂った自分では自分が狂ってることを証明できない。そもそも狂っていたら狂うしかないじゃないか。狂っていても狂わないでいれるものだろうか?クルクルクルってないよ。大丈夫。ぼくはまともで狂ってないよ笑 ブゥゥゥ・・・・ンンンン。

ゲットアウト ジョーダン・ピール

ある週末、主人公の黒人クリスは白人の彼女ローズの実家へ2人で移動していた。道中、小さなトラブルはあったが無事ローズの実家へ。そして、たまたまこの週末が親族の集まるパーティだと聞かされる。親戚付き合いが大切なのは米国も同じ。パーティでクリスは今なお残る黒人差別を、白人の親族たちの言葉の端から感じ取る。さらに、ローズの実家には奇妙な黒人の名刺使いたちがいた。ストレスを募らせるクリス。果たしてこの家には何があるのだろうか。

一風変わったホラー映画。お化けや化け物が堂々と人を襲うのではなく、人の心の中にこそ恐ろしいものがある。つまり、その意味でジャパニーズホラーのテイストが入っているといえる。

本作は是非2回見てほしい。初回では「?」となるシーンの数々が、2周目にはスッキリ納得できるはずだ。脚本は非常にロジカルに組まれている。この映画を監督したピール監督は元コメディアンらしい。笑いはロジックでできている。それは「緊張と緩和」という方法論に基づく。そしてこのメソッドはホラー映画の文脈にも通じるところがある。人の心を揺さぶる良作である。

もう一つ。日本人に馴染みはないが、なんだかんだで黒人差別は未だにある。その点を子に作品は実に鋭く抉っている。その鋭さを是非感じ取ってほしい。

12人の死にたい子どもたち 堤幸彦

映画「十二人の死にたい子どもたち」オリジナル・サウンドトラック

映画「十二人の死にたい子どもたち」オリジナル・サウンドトラック

うーん。微妙なところ。68点ぐらいの映画、というとこだろうか。豪華キャストで演技は素晴らしいと思う。ピリピリした緊張感がよく出ている。一方、脚本的には苦しいか。いや、仕方がないと思うけれど。

なんせ主要人物は12人もいるのだ。120分の映画のサイズだと単純計算で1人にかけれる時間は10分である。無茶だ。堤幸彦監督は大人数でのドタバタ劇を描くのに長けているが、本作は「自殺のために廃病院に集まった12人」を描くのである。ドタバタ劇のノリにするわけにはいかないだろう。設定も事件もアイデアは実に面白いが、なにせ映画のサイズに向いていなかった。監督と脚本家の苦労が眼に浮かぶようである。

主要人物がせめて半分の6人いないであったなら、もう少し個人個人を掘り下げることができたかもしれない。この掘り下げが無いので、この映画は「比較的シンプルなミステリ」に留まってしまっている。サクサク解答にたどり着けるミステリは、ある意味現代っぽいのかもしれないが、やはり面白みに欠けると言わざるを得ない。サクサク過ぎて意外性もあまりない。掘り下げがあれば、複雑な事件の背景にある複雑な人間性を描くことができ、全体の重みが増すのである。

というわけで原作を読むか、映画を観るかで迷っている人には、是非原作を読んでほしい。この映画的に無理のある設定でも強引に映画化に持っていった人がいるからこの映画は成立している。原作にはそれだけのパワーがあると見ていいだろう。といってもぼくは原作未読なので全くあてにならない意見だが。

読めば読むほど面白い『古事記』 75の神社と神様の物語 由良 弥生

神話のストーリーと登場する神様たちを祀る神社を紹介する本。

ストーリーと神社紹介が交互に出てくるのだが、どうも神社紹介が邪魔になってストーリーがスッと入ってこない。全体的に広く浅くという紹介本なので内容も薄い。いまひとつ惹きつけられるものがない。

とはいえ日本神話入門としてはいいかもしれない。忘れられつつある、日本人のルーツに想いを馳せた。

美人画報 ハイパー 安野モヨコ

美人画報 ハイパー

美人画報 ハイパー

安野モヨコのエッセイ。たぶんアラサーのころのもの。

相変わらずギャルギャルしているが、多少落ち着いてきたように思える。どうも「ギャル」精神のようなものは苦手で受け付けない。ただ自分を磨くためならなんでもする、という精神は見習うものなのかもしれない。

エッセイより挿絵のほうが楽しい。この人の絵は無駄がなくて素敵だ。

脂肪という名の服を着て 安野モヨコ

脂肪と言う名の服を着て-完全版 (文春文庫)

脂肪と言う名の服を着て-完全版 (文春文庫)


「あたし今ダイエットしてるの❤︎」(のこ)

主人公・のこはストレスが溜まると食べて解消するタイプ。結果、そこそこぽっちゃり体型に。職場でのイジメ、彼氏の浮気、とストレスの要因は増えるばかり。ある日、ひょんなことから大金を手にしたのこは、エステに通って痩せることを決意するが…

えぐい。エグすぎる。冷静に最後まで読むことができなかった。でも、すごくリアリティがある。つまり現実の世の中にはこの漫画みたいなことがあってもおかしくない、と思わせるぐらいの影があちこちに存在している。ただただ辛い。

赤ひげ診療譚 山本周五郎

赤ひげ診療譚 (新潮文庫)

赤ひげ診療譚 (新潮文庫)

保本登は医師である。長崎での遊学を終え、帰ってきた彼は御典医を目指すつもりだったが親戚筋の計らいで小石川療生所の見習いとなる。小汚く、貧乏な施設。所長の赤ひげとの確執。しかし、保本は少しずつ赤ひげから学んでいく。

黒澤明監督の映画の原作。短編の形をとって、テンポよくお話が進む。

赤ひげを始め登場人物はみな苦境に立たされている。自分の力の不足。世の中の理不尽。貧乏。差別。無知。どう戦ってもどうにもならない。それでも、自分たちに出来ることをやっていく。生きることをまざまざと描いた作品を見てだと感じた。