続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

Sex Education

Sex Education | Netflix Official Site

 

 主人公オーティスは地味な童貞高校生。いわゆるナード(オタク)。彼の母親は節句巣・セラピスト。彼女は場合によっては行為を交えて患者の性の問題に取り組んでいる。思春期真っ盛りのオーティスには過酷な環境だ。そんなオーティスはひょんなことから学校でセックス・セラピストとして商売を始めることになる。性の悩みは千差万別。勃起不全、レズ、女装趣味。時代を象徴するLGBTQ。単純なすれ違い。そしてオーティス自身が抱える射精障害まで。悩める現代の性を描く問題作がここに爆誕

 

 第一話冒頭。いきなりがっつりエロシーンから始まるこのドラマ。しかし、

あくまでもその狙いはタイトル通り性教育にある。いわゆる学校の保健体育ではとりあつかわれない「現代の性教育」だ。

 

 多様性に重きをおき。多様であればなんでもいいこの時代。性もとにかく多様であり、多様な性は複雑極まる問題を抱えている。それを高校生たちの悩みとして描き、人間ドラマへと昇華させたこの作品は面白い。

 

 性の問題は色々とややこしい。取扱注意といったところがある。しかし、これをサラリと扱ってしまうのがイギリスという国の強さだろうか。もちろんそれを流すNetflixも現代の荒野を開拓している。「先進」たるものの気概を感じる作品だった。日本の地上波なら、きっと企画段階で頓挫しているだろう。

 

 作中頻繁に扱われるLGBTQには想うところが色々あるが、個人的には「他人に迷惑をかけないならご自由にどうぞ」である。ただ、旧約聖書で言うところの「産めよ、殖えよ、大地に満ちよ」の言葉には反すると思う。ぼくは聖書の神を信じていないので別にどうでもいいのだけれど。西欧社会で多数派を占めるキリスト教の人たちはどう考えるのであろうか。生物の営みとしては、存在を否定しないまでも、推奨できるものではないと思うのだが。

 

 あと、オーティスの母親は個人的には鳥肌が立つほど気持ち悪い。子離れ出来ないにもほどがある。母子家庭という点を差し引いても気持ち悪い。あと、最終話でとった行動は、甘く見ても「グーで殴る」ぐらいのことをオーティスにされてもいい。いやされるべきだろう。ぼくの親なら今後一切顔も見たくない。

 

 大人気作とあって、放映中から続編の製作が決定していたらしい。色々と問題山積みのまま1st1シーズンは終了となった。元々のコンセプトがとんがった作品であるだけに、今後の展開が難しそうだ。逆に期待できるとも言える。日本の映画やドラマにもこれぐらい攻める姿勢を見習ってほしいものだ。

なめくじ艦隊 志ん生半生記 古今亭志ん生

なめくじ艦隊―志ん生半生記 (ちくま文庫)

なめくじ艦隊―志ん生半生記 (ちくま文庫)

談志もちょいちょい話題に出す志ん生。その波乱万丈の人生は、人生そのものが落語だ。そして志ん生もまた落語に人生を学んだ人なのだ。

人生ってなんだろう、と時々思う。しかし、この本を読みながら「所詮、成り行きに過ぎないのかもしれない」と思った。奇しくも談志の言葉である。世の中には人智を超えた大きな力の流れがある。その中で個人個人はなんとかかんとか浅ましく生きていくしか無いのだ。そんなことを志ん生は誰よりもよくわかっていたのかもしれない。一見行き当たりばったりの人生こそ、真の人生なのかもしれない。

内臓脂肪を最速で落とす 奥田昌子

わかりやすく読みやすい。研究データなどのエビデンスを示してくれることで「痩せよう」という気持ちにさせてくれる。そして痩せるためにできることがしっかりと提示されている。「健康にために痩せたい。けど何をどうしたらいいのかわからない」という人に持ってこい。とりあえずダイエットの入口はこの本で間違い無いと思う。

I am Mother

「正しい選択は?」(Mother)

 

Netflix映画。人類の死に絶えた世界。しかし、そこには人型ロボット「Mother」が管理する外部から隔離された施設があった。施設に保存される胎児からMotherは子供を育て上げる。本当に良い人類を育てるためMotherは慣れないながらもDaunghterを育てる。しかし、そのDaughterの前に一人の人間が外から現れる。混乱するDaunghter。果たしてMotherの思惑とは。

 

考察の余地が広い映画なので、空白を自分で上手く保管できると楽しめるのかもしれない。この映画のストーリーを追うだけでは、世界観を理解できないように敢えて作られた映画なのであろう。

 

Motherは着実に「より良い」人類を育てあげようとしている。しかし、その目的は謎である。そもそもMotherは誰が何のために作ったのか。なぜ人類を蘇らせようとしているのか。全く謎である。更に言えばどうして人類の胎児を大量に保存した施設が存在し、そこをMotherが管理しているのか。なぜ、Motherは自分の管理下で子供を育てようとしているのか。全て謎のままに終わる。

 

この映画はそこのところを妄想して楽しむ映画なのだろう。本編には答えはなく、何となく意外性のないままにDaughterがMotherの元から旅立ち、ある意味では新たなMotherとなるという今ひとつ面白みのない筋書きで終わる。

 

というわけで僕の妄想を書いておこう。

 

まず、人類は人口が肥大しすぎた結果、お互いを滅ぼし合うことになったのであろう。意外にも核は使用されなかったようだ。それでも熾烈を極める戦火は人類が滅びるのには十分だった。

 

一方で、長い戦争の間に、一部の科学者は人類を存続すべく施設を作り、そこに大量の胎児を保存したのだろう。たぶん、優生学に基づく優秀な遺伝子を持つ胎児たちだ。だから、この映画には白人しか出てこない。もちろんMotherも作られた。もし人類が滅びたらMotherが胎児を呼び覚まし人類は復活するのである。

 

果たして、人類は滅びMotherは活動を開始した。人類を再建すべく、Motherは子供を教育していく。しかし困ったことに、Motherを作った科学者も「より良い人間の基準」は想定できても、そのための「より良い人間の育て方」はわからなかった。そのため、Motherは「より良い人間の基準」だけを持ち、育て方を試行錯誤することになる。幾多もの失敗作を葬り去り、時には耐久性をテストすべく施設外の荒野へ失敗作を放逐ししながら、Motherはついに本作の主人公に辿り着く。やっと、やっと「より良い人間」を育てることに成功したのだ。

 

しかしそこへ施設外の人間。そう「失敗作」が訪れる。劇中のゴタゴタはこの帰還した失敗作による主人公の幻惑を描いたものだのだ。

 

結局、主人公はMotherが一体のロボットでは無く、数多の端末を支配するクラウド上の巨大なシステムであると知る。世界はMotherの端末に支配されているも同然だし「失敗作」は敢えて生かされていたのだ。全てMotherの手のひらの上だったのである。

 

ラストシーン。主人公はMother(の一端末)を倒し、生まれたばかりの弟と共に施設で生きる決意をする。しかし、その姿はどこかかつてのMotherを思い起こさせるものがある。かつてのDaughterは新たなMotherとなって、自分が赤ちゃんの頃に聞いた記憶に無い子守唄を口ずさむ。「♪ Baby mine, don't you cry...」。Motherの思惑は達せられた。主人公は新たなMotherとして「より良い人間」を育て上げていくだろう。かつてのMotherが試行錯誤の末に見出した主人公なのだ。育て方にも、その結果にも間違いはない。ロボットMotherは新たな人類の礎となるMotherをつくりだした。

 

ああ、人類は素晴らしく、そして人類は恐ろしい。旧人類の力であるMotherが生み出した新たな人類はどんな道を歩むのか。

 

と、全てぼくの妄想である。なかなか映画を楽しんでいると言えるのではないだろうか。

風立ちぬ 堀辰雄

風立ちぬ

風立ちぬ

風立ちぬ、いざ生きめやも。

宮崎駿監督と映画でお馴染みとなった一昨。原作には堀越二郎は関係ない。結核患者の嫁をもつ主人公の心情が淡々と、そして美しい景色とともに語られる。

戦前の貴族(華族?)文化を透明感ある文章で描いた作品。嫁である節子が結核患者であり、サナトリウムへ入るほどの重症患者でありながら、主人公と節子はお互いを慈しみ合う。まさに「愛」を描いた作品。

透明感の背景には、美しい風景描写がある。人の心を主題としながら、風景描写に力を入れるのは一見おかしいように思えるがそんなことはない。この風景描写は、主人公の私の眼を介した描写である。いかなる景色も主観によって脚色される。この作品に描かれる風景にこそ、主人公の心が反映されているのだ。そしてそこにある透明感は、主人公の澄みきった愛の現れなのだろう。

個人的に印象に残ったのは、衰弱した節子が山の影にお父様を思い描き微笑むところだ。主人公の私はその時なんとも言えない感情に襲われる。娘として父を慕う感情に、旦那としての地位を脅かされたのかもしれない。

心やすらかな終末を感じるいい作品だった。上品で軽やかな文章にも心惹かれる。うまく言えないがここに教養というものがあるのではないだろうか。

ローマ アルフォンソ・キュアロン

キュアロン監督がNetfilixオリジナルで制作した映画。これが金獅子賞を受賞したという事で、映画界には少なからず衝撃が走ったものと思われる。

 

物語は1970年代メキシコの中流白人家庭とその召使いクレオを描く。多分実際に同じようなことがあってであろうリアリティある映画である。

 

そこにはスーパーヒーローや魔法は存在しない。ただごく普通の人間が暮らしている。そしてそれをごくごく自然に受け入れることができる。映画が元々描いていたのはそういう当たり前の人の暮らしである。この作品が評価されたのは「そろそろその原点を見直す時期だ」ということかもしれない。

 

SFブームに始まって、CGの劇的な進化に伴い映画はどんどん現実から離れてきた。僕らのような世代(20−30代)はあまり映画にリアリティを感じる事はない。一企業の社長がハイテクスーツに身を包み戦う事はないし、クモ男が飛び回っているのは空想のNYだ。映画の中にいる僕らのような普通の人はどんな生活をしているのか、そんな事は描かれていないし、描く必要もない。映画の世界は現実から離れすぎてしまった。

 

今こそ、現実を描く映画が必要なのだ。人々はそこから学ば部ことができる。現実を生きることを。生きる力をもらう、と言ってもいいかもしれない。

 

映像面ではまず白黒映画というのが挙げられる。今の時代に白黒なんて、と思うかもしれないが、白黒には白黒の良さがある。空想の余地があるというのは作品の面白さに関わる大事な要素だ。あの絨毯の色は、空の色は、観客のイメージに委ねられる。映画は観客が見て完成する。情報を詰め込みすぎては、観客に空想の余地がない。ピンからキリまで、いろいろな感想が出てくるのがいい映画なのだろう。

 

あとは、ところどころに挿入される飛行機が印象的だった。地上で生きる人々と対比して、それは自由を象徴しているのかもしれない。ただ、鳥ではないところに現代っぽさを感じるし、皮肉っぽさも感じる。飛行機は人が作ったものだし、飛行機で論でいる間むしろ乗客は不自由を余儀無くされる。自由な暮らしなど存在しないのかもしれない。それは、オープニングで描かれた水面に映る飛行機のようなものかもしれない。

 

個人的には映画館で観たい映画だった。ノートパソコンの小さな画面を2時間観るのはしんどい。疲れて退屈してしまった。なんだかんだで映画館ってよくできた空間なのだ。

三島由紀夫 幻の遺作を読む〜もう一つの『豊饒の海』 井上隆史


三島由紀夫の遺作「豊饒の海」を、その構想ノートと時代を加味しながら紐解き、三島が製作しなかった幻の最終編を再構築することに取り組んだ一冊。

豊饒の海を読んでいないのになんとなく読んでしまった。なので著者の意見に賛成も反対もない。こういう本の読み方もあるのだな、という感じ。いずれ豊饒の海を読んでみようとは思うが、その時にこの本の影響をぼくは少なからず受けるのだろうと思った。