続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

スパイダーマン:スパイダーバース ボブ・ペルシケッティ ピーター・ラムジー ロドニー・ロスマン

 

 

コレは見ておくべき。スパイダーマンの新作なんてものではない。ハリウッドの映像表現のチャレンジであり、ジャパニメーションすらもハリウッドの手中としようとすることを明確に描く映画だ。

 

映像表現としては「アメコミを動かした」というチャレンジを感じる。印刷のようなドット状の塗りつぶしや微妙な印刷のずれ。コレらをアニメーションの中で再現している。さらに、3DCGでキャクターや背景を描きつつ、カートゥーン的な表現も厭わない。そして、コレら多種多様な表現を違和感なく一つの映画にまとめている。

 

コレはまさにアメリカの「るつぼ」というあり方を体現した映画であると感じた。実写以外のありとあらゆるものを、一つの映画に閉じ込めようとしている。それでいてストーリーは子供にも理解できるほど簡潔だ。Simpleかつ強い物語である。しかも「スパイダーマン」としてのお約束を忘れない。

 

しっかりした脚本以上に、映像表現への実験性を強く感じた。アメコミの印刷のようなドット状のベタ塗り。斜線で表現される陰影。輪郭とベタ塗りのズレ。一方で3DCGを駆使したPIXAR的な映像。コレらをアニメーションとして違和感なく統合して表現している。さらにカートゥン的なキャラクター。ジャパニメーション的なキャラクターまで同一世界に同居させる。もちろん違和感なく。

 

微妙な一挙手一投足にキャラクターを描く工夫がにじみ出ている。それはジャパニメーションが得意とするところだったのだが、この映画には負けた、いや少なくとも追い付かれたと言わざるを得ないだろう。

 

この映画はハリウッドにしか作れなかっただろう。そして、あまりにもよく世界の映画を吸収している。他にも色々あるが、しびれる映画であることは間違いない。やっとスパイダーマンは偉大なるサム・ライミ監督の呪縛から逃れられるのではないだろうか。

虫眼とアニ眼 養老孟司 宮崎駿

虫眼とアニ眼 (新潮文庫)

虫眼とアニ眼 (新潮文庫)

必要なのは、理念を語ることではなくて実際に何かをやることです(宮崎駿)

ジブリの監督・宮崎駿と脳解剖学者・養老孟司の対談集。

とんがった2人が現代という時代を語る。といっても少し古い、もののけ姫千と千尋のころのお話。しかし、この頃から2人が抱くどうしようもない危機感のようなものは、今持って膨らみ続けているように思う。特に子供たち、その育つ環境についての不安が大きい。

今の子供たちはとてもバーチャルな世界に生きている。そして、実物よりもまずバーチャルに触れることが多い。これは実物に触れて、その後バーチャルに触れた大人たちとは全く異なる経験だ。宮崎監督は、これを「皮膚感覚がない(乏しい)」と表現した。なるほど、と思った。

僕も含む若い世代は情報にばかり触れている。一方で実物に触れることは少なくなっている。Wikipediaタガメを見たことはあっても、田んぼでタガメを捕まえたことは無い。そんな人間が多い。だから知識という情報はあっても、その基礎にある現実が抜け落ちているのではないだろうか。それはとても怖いことなのかもしれない。

養老先生は「デジタル化されたデータを拡大しても紙のスジが見えるが、実際の生物を拡大すると細胞が見える」という。そのことを時代はどんどん忘れつつあるのかもしれない。

読書の価値 森博嗣

読書の価値 (NHK出版新書 547)

読書の価値 (NHK出版新書 547)

この人は実に理路整然としている。書き手としても、読者としてもそうだ。

本を読むという行為が好きな人は多いだろう。ただ、本を読むことが自分にどのように影響するか、あるいは本を読むことにどのような意味を見出すか、ということを冷静に考えたことのある人は少ないのではないだろうか。

昔、落語家の立川談志は「その本を読む必要があるかどうか判断する力が教養である」と言っていた。なるほど、そうだと思う。だから教養を身につけるためには本を読むこと、すなわち読書について、その意義や価値を整理しなくてはいけない。本書はその一助になると思われる。

ゾラ・一撃・さようなら 森博嗣

ゾラ・一撃・さようなら (集英社文庫)

ゾラ・一撃・さようなら (集英社文庫)

探偵の頸城悦男はある日、志木真知子と名乗る美しい女性から、元政治家の法輪清治郎から「天使の演習」という美術品を取り戻してほしいと依頼を受ける。しかし一方で、プロの暗殺屋のゾラが法輪を狙うとの噂が流れる。果たして頸城は仕事を果たすことができるのか。

ハードボイルドな世界観と軽妙な掛け合いが楽しい一作。300ページ程度の単行本でサクサク読める。本作では事件よりも、そこに至るまでの人間関係が丁寧に描かれる。人は皆秘密を持っている。探偵の頸城は少しずつ秘密に踏み込んでいく。その過程が、なんとなく痺れるようで心地よい。

そして行き着く事件と、そのあとのラストへ向けての激流。このギャップも気持ちがいい。じっくり溜めて一気に放出するという感じだ。

森博嗣ファンとしては「天使の演習」が出てくるだけでこの本を読まないわけにはいかない。またも事件を起こすこの美術品は一体どんな数奇な運命を辿るにだろうか。

百器徒然袋 雨 京極夏彦

文庫版 百器徒然袋 雨 (講談社文庫)

文庫版 百器徒然袋 雨 (講談社文庫)

「ぼくが仕切るぞ!」(榎木津礼二郎)

京極堂シリーズの脇を固める名脇役、探偵の榎木津礼二郎を主役に据えたシリーズ第1作。相変わらずのレンガ本だが中編が3つ入ってるので比較的絵読みやすい。

探偵ものらしく探偵社に悩みを抱えた依頼人が訪れるところから物語は始まるが、相変わらず榎木津はまともな探偵はしない。彼はただ視るだけなのだ。人の記憶を覗き見る。京極堂シリーズでは奇怪なヒントを与えてくれるこの榎木津の能力だが、このシリーズでは事件解決の鍵となる。

榎木津の能力頼りということもあり、謎解き要素は少々薄れるが、そのかわりキャラクターが大暴れする。物静かな恐怖が漂う京極堂シリーズとは対照的である。同じキャラクターと世界観をもってしても、主役次第でずいぶん雰囲気が変わるものだ。こっちの方が好きな人もいるのかもしれない。

黒田如水 吉川英治

黒田如水(吉川英治歴史時代文庫 44)

黒田如水(吉川英治歴史時代文庫 44)

若き黒田如水の物語。まだ黒田官兵衛を名乗っていた頃のはなしである。

兵庫は姫路に居を構える小寺は、中国の一大勢力毛利と、波動を快進撃する織田の間に揺れていた。家臣の一人であった官兵衛はいち早く織田の力を認め、城主へ織田方へ下ることを進言する。しかし、場内には未だ毛利の声も強い。果たして小寺家の運命はいかに。


戦国というシビアな時代の世において、強かに生きる官兵衛の姿が描かれる。官兵衛は自分の利やその場しのぎの判断には身を委ねず、国家泰平の世を見据え、その中で生きていく。織田方にこそその力を見出し、臆することなく秀吉と組した。

大きな流れを見出し、その流れに乗り、決して小事に振り回されない。当たり前のようで、簡単なようで難しい。ぼくにはまだ大きな流れもよく見えないのだ。

おらおらでひとりいぐも 若竹千佐子

おらおらでひとりいぐも 第158回芥川賞受賞

おらおらでひとりいぐも 第158回芥川賞受賞

どうもぼくはまだこの本を読むには若すぎるのか。非常にイライラしながら読むことになった。

東京に一人暮らすおばあちゃん・桃子さん。独立した子供とは疎遠になり、夫には先立たれ、一人孤独に生きる。ただただ内省を繰り返す日常を、生まれた東北の言葉で綴る。

老人で溢れる国である日本には、実際にこのような老人がいっぱいいるのだろう。桃子さんを知ることは、今の日本の国の一側面を知ることだ。今という時代を反映した文学として価値ある作品であることは理解できる。

しかし、どうにも読むのが辛い。まず東北弁が理解できない。唯一の登場人物である桃子さんの思考が読めない。ひたすらに内省し続ける桃子さんのキャラクターもあってまったく共感できない。ただただイライラする。読み物としては絶望的に辛い。

ただ、今の日本が抱える問題である「孤独な老人」というものを身近に感じられるのはいいことだ。あと失われいく言葉である東北弁を残すということも大事だろう。だから価値ある作品であることはわかる。

でも、どうしてもイライラしてしまう。これに怒る人もいるかもしれないが、ぼくはそういう性質なのだろう。改めるべきことかもしれないが、一朝一夕で変えれるとは思えない。せめて自分の性質に気づいただけでもまだましか。この本はその意味で心を写す鏡なのかもしれない。