続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

アリータ:バトル・エンジェル ロバート・ロドリゲス

時は26世紀。空に浮かぶ都市ザレムの下で、くず鉄町の人々は混沌とした生活を送っていた。ある時、医者のイドはザレムから落とされる廃棄物のなかにコア(人間の頭部〜胸部にあたる部分)の生きたサイボーグを発見する。彼は自身の技術でサイボーグにボディを与え復活させる。アリータと名付けられた純粋な心のサイボーグは徐々にその秘めたる力を覚醒させていく。

ジェームズ・キャメロンが熱心に取り組んできた作品だが、うーん、これはどうなんだろう。悪くはないがもう一つ足りない。カツカレー大盛りを注文したら、牛丼並盛りが出てきたような、そんな物足りない作品である。

気になる点はいろいろあるが、まずはストーリーだろう。

ストーリー序盤から中盤にかけて、アリータは感情の赴くままに行動する。それを「純粋」と表現したいのだろうが、どうも「物事を考えないクソガキ」にしか見えず全く感情移入できなかった。

そもそもアリータは死んだも同然の存在であった。ゴミとして捨てられていたのだ。それを生かしたのはイド博士だ。多少は恩義に感じるところがあるはずだろう。しかし、恩義どころかアリータはイド博士を巷で起きている連続サイボーグ殺人の真犯人と勘違いし、ほとんど迷いなく彼を止めにかかる。さらにイド博士が実は裏稼業としてハンター・ウォーリア(賞金稼ぎのようなもの)と分かると、娘として平穏に行きて欲しいと願う彼の言葉を他所に自分もハンター・ウォーリアになると言い出す。当然反対されるがそれでも勝手にハンターになってしまう。しかも速攻で他のハンターに喧嘩を売りに行き、最終的にはいろいろあってコア以外をぶっ壊される。

これで落ち着くかと思いきや、次は命の危険もあるモーター・ボールの選手になろうとトライアウトを受ける。「娘ごっこはもううんざり」という発言をイド博士が聞いたらショックだろう。そのイド博士は娘をモーター・ボールの選手に殺されており、この競技を毛嫌いしている・・・はずなのに、なぜイド博士は意気揚々と控え室でアリータのメンテをしているのか。さらには足先のローラーブレード的なパーツまでプレゼントしている。意味がわからない。なおこのとき「ヘルメットは絶対装備しろ」とイド博士はアリータを気遣う言葉をかけるが、ラストシーンで再度モーター・ボールに挑む彼女はヘルメットをつけていない。馬の耳に念仏である。

SF考察も雑だ。アリータは実は300年前の大戦(the Fallと呼ばれる火星との戦い)の火星軍と兵隊である。その身体は最先端の兵器であり、心臓は街一つを何年でも動かせる超弩級のロスト・テクノロジーである。・・・が、だからといってアリータが 化物じみて強いことの説明にはならないだろう。特に序盤のアリータはイド博士が娘にために用意した一般的な強度のボディを使用しているのだ。心臓がいかに強くても、ボディがもたないだろう。SFのリアリティに欠ける。

映像面は申し分のないクオリティだが肝心の主人公アリータの顔がもう一つ。アリータの顔はCGを駆使して眼が大きめに、まるで日本の漫画のように表現されている。これはアリータが造られたものであることを強調するものだと思うが、正直気持ち悪い。「不気味の谷」という現象がある。CGなどで人間の顔を作ると、人に似せれば似せるほど、それを見た人は違和感を覚えるのだ。しかし、ある閾値を超えると自然と受け入れられるようになる。アリータは閾値を超えていない。26世紀の火星の技術でもまだ不気味の谷は超えられないのか。いやいや、地球の技術で造られたザパンの顔は完全に人間だ。そもそも我々の21世紀の時点で不気味の谷は超えられつつある。この谷を越えるのにあと500年は必要ないだろう。

そんなわけで登場人物のほぼ誰にも共感できない、さらにストーリーや設定にも疑問が残りまくりの映画だった。ただ、一つ、賞金稼ぎで犬使いのおっちゃんだけは許す。名脇役である。