キャノンボール
違法なアメリカ大陸横断レース。賞金と名誉をもとめて集まるのはどいつもこいつも曲者ばかり。警察に捕まらずにニューヨークからカリフォルニアまでぶっちぎれ。果たして優勝は誰の手に?
明るく楽しいコメディ映画。豪華キャストでお祭り騒ぎといった感じの映画。あー、なんか映画ってこんなので良かったんだよなー、という気分にさせてくれる。脚本がどうとか、芸術性がなんとか、CGの出来がうんたらとか、案外そういうのは映画の枝葉の部分で、幹がしっかりしていれば十分主題を表す映画ができるのかも。
とはいえ映画は時代が作らせるものなので、1981年公開のこの映画には当時の世相が反映されている。日本人チームの扱いが代表的で、演じてるのはジャッキー・チェンだし、申し訳程度に日本語のセリフがあるけど、基本的に中国語でしゃっべている。日本製の4WDとかコンピューターの力を自慢しつつも、ヘマをやらかして大失敗。当時のアメリカ人からみた日本人への目線がよくわかる。
何にせよ、肩の力を抜いて楽しめるいい映画だ。意外とこれからこういう映画がまた作られるようになるんじゃないかと思ったり。
激動の昭和史 軍閥
昭和の時代。太平洋戦争へ突入していく日本を描く映画。実際の映像を交え当時の空気をリアルに再現する。
こんな映画があったんだ、という印象。1970年公開の作品で、戦争や国のあり方、非常時におけるメディアの存在意義を中心に、非常に批判的な目線を貫いて制作されている。
戦争は忘れられつつある。ぼくも戦争のことはよく知らない。今の小中学生にはもはや戦争をリアルなものとして捉えるのは難しいのではないだろうか。だからこそ、今こそこんな映画が必要なのではないかと思う。日本のいう国に、国民のなかに、当時と同じ性質はいまもあると思う。その性質は決して悪いものではないが、悪いものになってしまうことがある。そのことを自覚しなければ、いつまた同じ轍を踏むかわからない。
個人的には、サイパンのジャングルの洞窟で、敵軍が迫る中泣き止まない赤ちゃんをどうにかしろと軍人が母親に詰め寄るシーンが鮮烈に印象に残った。追い詰められた母親は無我夢中で赤子を絞め殺してしまう。映画はもちろん偽物だが、本物の狂気がそこにあるように感じられた。戦争とは、こういうことなのだ。
すべての日本人に見てほしい映画。
スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム
With great power comes great responsibility (劇中のとある人物のセリフ)
スパイダーマン新三部作の3作目。前作で世界中に正体を知られたスパイダーマン。果たして彼の運命は?
見終わって気づいたのはこの三部作の構造がこれまでのスパイダーマンと大きく異なるとだ。このシリーズ三部作は「スパイダーマンが誕生するまで」を描いたと言ってもいい。過去の2シリーズが1作目の序〜中盤にかけてやってきたことを、3作丸々かけて描いたといえる。
だからこそ、本シリーズのピーター・パーカーはいつまでもどこか甘いところのある「ふつーの学生」だった。スパイダーマンというスーパーヒーローはその超能力だけで成立するのではないのだ。心をともなって初めてヒーローといえる。それは上の劇中の人物の言葉に代表だされている。
一方で、本作は過去のスパイダーマン・シリーズたちの総集編ともいえる。そのためにドクター・ストレンジを引っ張り出し、マルチバースの世界を舞台にした物語が紡がれた。どうしてそんなことをするのか。たぶん、大きなピリオドが打ちたかったのだ。スパイダーマンというコンテンツの映画に。たぶん、それは成功した。次のスパイダーマンはどうなるのだろう?実はそれこそが、ぼくの一番楽しみなところである。
007 No time to die
007シリーズ最新作。MI6を引退したボンド。前作のボンドガール・マドレーヌとすっかり出来上がってしまい、彼女を連れてイタリア旅行。悠々自適の引退生活を送るも、彼にスペクターの影が忍び寄る。果たして黒幕の正体は?MI6内部に見え隠れする不穏な動きは一体?ジェームス・ボンド、一世一代の大立ち回りが始まる。
僕自身は世代的にはピアース・ブロスナン世代で、今のダニエル・クレイグのボンドはちょっと苦手。ちょっとワイルドすぎるんだよなぁ・・・。しかし、今の007シリーズは一話完結でなく大きな流れが全体を貫いていて、映画としての出来は素晴らしい。先入観だけで映画作品を否定してはいけない。本作は、ダニエル・ボンドの最終作。それに相応しい最高の映画に仕上がっている。
ジェームズ・ボンドに結末が与えられたのはたぶん本作が初めてではないだろうか。ピアースのころにはミッションが終わったボンドは世界を放浪しバカンスを楽しむものだった。あくまで過去のボンドはミッションの中で己の情熱とそのスキルを最大限発揮するのだった。本作でダニエル演じるボンドはもっと直感的でプライベートな存在だ。彼はまさに一個人として巨大な悪と退治し、持てる力をふりしぼって戦うナイスガイなのである。
本作では複数のボンド・ガールが出てくるが、個人的にはキューバでちょっと出てくる女の子・パロマが最高にかわいい。いやもうこの人をメインに持ってきてほしかった。やっぱスタイリッシュなガンアクションで、ボンドと流れるような絶妙なコンビネーションを発揮するセクシーガールは最高である。
エンタメ映画として流石の出来のこの映画。シリーズの締めくくりとしてもよくできている。しっかり地に足ついた良作である。ダニエル・クレイグのジェームズ・ボンドは完成したといってなんら問題ないだろう。
三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実
「ぼくは君たちのパッションだけは信じる」(三島由紀夫)
実際の映像を用いたドキュメンタリー。1960年代。左翼活動を続ける「東大全共闘」は安田講堂を追い出され、次の一手として討論会を開く。白羽の矢がたったのは当時の右翼の急先鋒・三島由紀夫だった。
討論会なんてのはぼくの人生と縁がないので、あんまりよくわからないのだが、イメージとしては喧々諤々としているものだと思っていた。しかし、この映画の中で繰り広げられる討論は実に知的な闘いであった。笑いが起きたりもするもんである。特に右翼と左翼なんて絶対噛み合わないと思うのだが、それはぼくの間違いだった。立場や思想が違えども言葉で対話することはできる。もっとも映画の中では、この時代が言葉が生きた最後の時代だと言われたりするのだが。
新鮮だったのは三島と全共闘の間に「共闘」という考えがあったことだ。もちろん表立ってはどちら側も拒否するのだが、当時は右翼も左翼もその根底にあったのは反米反体制であったようだ。戦後、おおげさに言えばアメリカの属国となった日本において、詰まるところ三島は「日本人としての自立」を求め、全共闘は「体制からの自由」を求めたんじゃないだろうか。目指した方向の微妙な違いが立場としては右翼・左翼という大きな違いに表れたということなのだろう。
ぼくが生まれるずっと前。こういう時代があったのだ。実際の映像と現在の当事者へのインタビューによって「解釈」ではない時代を肌で感じることができたような気がする(もちろん、気がするだけである)。ぼくにとっては時代の風を感じられる映画であった。
グリーンブック
時は1960年代。黒人が当たり前のようにニガーと呼ばれる時代。イタリア系アメリア人のトニーはキャバレーの用心棒。ところがキャバレーはいろいろあって2ヶ月休業になってしまう。妻や子どもたちを守るため、トニーがありついた仕事は運転手。その主人はドクター(ドン)・シャーリー。黒人のピアニストだった。
あーだめだ。ぼくはこういう作品に弱い。人と人が相容れることはまず無いのだ。でも、この作品では相容れない人と人との心からの心の交流が描かれる。それはブルックリン生まれのトニーの率直さによるものか。シャーリーの洗練された振る舞いによるものか。いずれにせ二人は打ち解け合う。奇跡のように。
この映画は事実に基づく作品である。つまり、事実ではない。だから、きっと、こんな奇跡みたいなことはなかったのだろう。でも、映画の中でぐらい夢を見てもいいじゃないかと思う。少なくとも、この映画のなかに描かれるような、黒人を人と思わないような人種差別が世界にはあった。いま、それは克服しつつある。だからこそ、我々は、その差別の歴史を知らねばなるまい。同じ過ちを繰り返さないために。
個人的には、割と序盤、主人公2人が車の中でケンタッキー・フライド・チキンを頬張る姿が印象に残った。うまいものはうまい。手づかみでいけばいい。洗練されたふるまいも、下町育ちの豪気さも、所詮人間の狭い了見の話である。ただ、一緒にうまいと味わうことは人間以外には難しいように思う。一緒にうまいメシを食えたなら、それが高級レストランでなくっても良い。人間ってこういうもんだ。車の中なら世間体なんて関係ない。うまいもんはうまい。俺もお前もそう思う。それでいいじゃないかとこの映画は問いかけてくる。
スーサイド・ショップ
ドンヨリとした街。行き交う人々はただ死ぬことばかり考えていた。自殺は法で禁止され、警察に違反切符を切られるのだ。それでも人々は死を願う。そんな街の路地裏に自殺道具専門店「スーサイド・ショップ」はあった。人々は死の安寧この店で買う。しかし、店のマダムに生まれたときから笑顔の子供・アランが生まれたことで街に転機が訪れる。
フランスのアニメ映画。海外のアニメーション映画は動きがぎこちない。フランスの人には人間の動きがこんな風にみえるんだろうか。この辺、日本のアニメーション映画(ジブリとか)はすごいと思う。
それはさておき、本作は負の空気に飲み込まれ自殺者が出まくる街での話。舞台はいかにもフランス風なのだが、フランスのような国にも自殺の波は押し寄せてきているのだろうか。映画のなかでは、自殺こそ人生からの開放と考える大人たちが死を選んでいく。主人公である自殺ショップの一家はその自殺を幇助していくポジションだ。それでも、この映画はハッピーエンドで終わる。自殺を否定し、生きることこそ人生の喜びだ、と。
日本のような自殺大国に居る人間からみれば、この映画は薄っぺらいことこの上ない。その意味では日本こそこの分野の先進国ともいえるし、フランスはいずれ日本と同じ道を歩むのだろうか。それは誰にもわからない。ただ、この映画を観るにフランス人は日本人より圧倒的に幸せである。本当に死を選ぶほどの辛さを、たぶんこの映画の監督はわからない。おそらく自殺を図ったこともないだろう。
ある意味、日本は(嫌な意味で)先進国だと感じることができる作品だった。この自殺問題に解決策を与えることができれば日本は一つのモデルとして地位を築けるのかもしれない。ぼくはそんなことを願ってはいないので全く嬉しくはないのだけれども。