続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

忘れ残りの記 吉川英治

 

 歴史小説家・吉川英治の自叙伝。波乱万丈の人生の、その青春を主に綴る。

 

 小説家というものは、勝手に恵まれた存在だと思っていた。勉学に時間を費やすことが出来、さらにその成果を作品として売ることができる。著者の生きた時代、出版社とコネを持つだけでも恵まれた環境が必要だったのではないだろうか。

 

 ・・・というイメージをガラリと変えてくれる作品だった。確かに著者は恵まれた家庭に生まれたようだが、その後の4半世紀はまさに波乱万丈だった。酒に溺れる父のために家は零落し、その日の食べ物にも困るほどに追い込まれていく。病床に倒れる父、幼い子どもたちの世話をする母。文学に目覚めながらも、著者は丁稚奉公で家計を支えることになる。仕事を転々とし、命がけの船具工にもなる。ようやっと象嵌作家に弟子入りと言う形をとり、職を持って自立する。そのあたりで物語は終わる。著者が小説家になるのは、このあとのことだ。

 

 家の落ちぶれていく様は「斜陽」のようであるが、その角度は太宰治が描いたものより遥かに厳しい。その辛苦の中で、偏に著者を支えたのは母への愛情だったのだろうか。またその一方、酒乱の父の存在も多感な少年には大きな影響を与えたものと思われる。著者の鋭い人間洞察力はこの辛苦の時代に養われたのではなかろうか。苦難の中にあってこそ、人間の本性というものをまじまじと見たのだろう(見ざるを得なかったのだろう)。そして、この経験があるからこそ、大衆に受ける作品が描けたのだと思われる。著者の読者のなかにはきっとかつての自分と同じ苦しい立場の人々が想定されていたに違いない。

 

 作家を知るとその作品の見え方もまた変わってくる。しばらく、吉川英治作品を読み耽ってみたい。