続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

グリーンブック

 

 時は1960年代。黒人が当たり前のようにニガーと呼ばれる時代。イタリア系アメリア人のトニーはキャバレーの用心棒。ところがキャバレーはいろいろあって2ヶ月休業になってしまう。妻や子どもたちを守るため、トニーがありついた仕事は運転手。その主人はドクター(ドン)・シャーリー。黒人のピアニストだった。

 

  あーだめだ。ぼくはこういう作品に弱い。人と人が相容れることはまず無いのだ。でも、この作品では相容れない人と人との心からの心の交流が描かれる。それはブルックリン生まれのトニーの率直さによるものか。シャーリーの洗練された振る舞いによるものか。いずれにせ二人は打ち解け合う。奇跡のように。

 

 この映画は事実に基づく作品である。つまり、事実ではない。だから、きっと、こんな奇跡みたいなことはなかったのだろう。でも、映画の中でぐらい夢を見てもいいじゃないかと思う。少なくとも、この映画のなかに描かれるような、黒人を人と思わないような人種差別が世界にはあった。いま、それは克服しつつある。だからこそ、我々は、その差別の歴史を知らねばなるまい。同じ過ちを繰り返さないために。

 

 個人的には、割と序盤、主人公2人が車の中でケンタッキー・フライド・チキンを頬張る姿が印象に残った。うまいものはうまい。手づかみでいけばいい。洗練されたふるまいも、下町育ちの豪気さも、所詮人間の狭い了見の話である。ただ、一緒にうまいと味わうことは人間以外には難しいように思う。一緒にうまいメシを食えたなら、それが高級レストランでなくっても良い。人間ってこういうもんだ。車の中なら世間体なんて関係ない。うまいもんはうまい。俺もお前もそう思う。それでいいじゃないかとこの映画は問いかけてくる。