ケーキの切れない非行少年たち 宮口幸治
世の中には数多の本がある。そんな本を読み続けた人はいつかきっと思うのだ。「本って何のためにあるのだろう?」と。
そして、この本はぼくにその答えをくれた一冊だ。その答えはシンプルである。本は「情報伝達のため」にあるのだ。
そしてその意味で、この本ほどその意味で本来の意義を果たそうとしている本はないだろう。
情報伝達の目的は様々だ。嘘もあれば本当もある。空想かもしれない。いや、それは預言なのかもしれないし、予知かもしれない。そんな中で、重視すべき情報は何だろう。ぼくは「この世に実在し、日の目の当たらない」情報こそ、真に伝えるべき助法であると思う。どんなにマニアックでも、どんなに嘘みたいでも、どんなに稀な事例でも、それを世に送り出すことに一つの意味がある。
つまり「世の中の暗闇にサーチライトを当てる」のだ。この本はまさにサーチライトである。
ものすごく大雑把に、いい加減に、この本の内容を紹介すれば「犯罪を犯す子供たちには知能障害がありますよ。そして、社会には知能に問題のある子供たちに対してまだ何の準備もされていないです。
ここで大事なのは「知能障害」のレベルがぼくら一般人の想像を遥かに超えていることだ。
タイトルにもあるように、著者の挙げる知能障害のレベルでは「ケーキをうまく当分すること」ができない。しかも三等分である。賢い子なら小1ぐらいでできるだろう。それを中高生ができないのだ。
計算ができない子もいる。漢字が読めない子もいる。他人の気持ちがわからない子もいる。自分の立場がわからない子もいる。もちろん、これらが全てではないし、これらが複合することでより能力的に劣る子もいる。肝心なのは、別に特別な理由もなく、そういう人間も居るということだ。
「社会」に組み込まれる人間には、実は一定のレベルが求められる。要するに「とんでもない馬鹿」は社会からはじかれてしまうのだ。とんでもない馬鹿は社会に害を成すと予想されてしまうのだ。まだ何もしていないのに。
結果、彼らは社会からも、親からも、見放されてしまう。その結果、自己顕示欲や承認欲求の受け皿を欠いた彼らは強引な形で埋めようとするのである。
全ての非行少年がそうではないとしても。この流れを組んだ子供たちは多いと思う。つまり、社会からあぶれた人間が犯罪者に「なる」のだ。
もちろん、上記は著者の言葉ではない。ぼくの感想だ。
ぼくの感想ついでにもう一ついっておこう。どうして「あぶれる人」が居るのだろう。どうして「あぶれる」のだろう。それは社会の側の問題なのではないだろうか。社会が狭量になっているのだろうか。余裕がないのかもしれない。「あぶれる」ことの無い社会づくりが必要なのでは無いだろうか。