小僧の神様 志賀直哉
ディエンビエンフー 西島大介
ベトナム戦争のまっただなか。従軍カメラマンとしてアメリカ軍に同行するヒカルは、日系3世のアメリカ人。凄惨な戦争のなか、米軍によるレイプ現場に遭遇し、命をおとしかけるも、謎のベトナム人少女プランセス(お姫さま)に助けられたちまち2人は恋に落ちる。しかし、戦争のさなか、2人はお互いに知り合うこともなく、泥沼の時代へと突き進んでいく。
KIndle unlimitedで遭遇した漫画。かわいらしいキャラクターとは裏腹にエログロなんでもありのストーリー。こういう漫画はときどき出てくるものだが、大体はファンタジー設定であることが多いようにおもう。その意味で、ベトナム戦争という歴史上の舞台を用意したこの作品はおもしろい。
ただし、登場人物や作中の出来事は多くがファンタジーである。ベトナム戦争の流れとその戦争の背景はおおむね史実なんだろうか(歴史に疎いのでよくわからない)。ただ、本作の中ではベトナム戦争の狂気が一段と強く描かれる。
ぼくの世代は戦争を知らない。ベトナム戦争も正直よくは知らない。ただ、その裏側にアメリカの闇(PTSDや麻薬中毒の蔓延)とか、ヒッピー文化があったこととかはなんとなく知っている(正しいのかはよくわからない。いい加減ですまない)。
この漫画は、「なんとなくベトナム戦争を知る」のにはいいのかもしれない。米軍は物量と優れた軍事兵器でベトナムを蹂躙するベトナム軍(ベトコン)のみならず民間人も犠牲になった。ベトコン側は勝利は無理だが、戦争を泥沼化させることが十分勝利に値すると考え、考えゲリラ戦をはってじわじわと米軍を削り続けた。中国からの支配に1000年抗い、フランスからの支配に100年抗ったベトナムの抵抗力は並ではなかった。
一方、先進国からすればこの戦争はまさに資本主義と社会主義の代理戦争であった。どちらがより優れた思想なのか。その誇りがベトナム戦争の勝敗にかかっていた。つまり先進国は感情的になっていた。「割に合わない」では終われない戦争になっていたわけだ。
この辺がぼくがこの作品がから感じたことである。個人的には作者の西島さんはこれからもっと伸びてくるんじゃないかと思う。「好きなことを漫画にしている」というより漫画を描くためにすごく勉強している感じが作中にみてとれるし、作中にいろんな漫画・アニメのパロディを散りばめていてもともとのオタク的な気質が伺い知れる。どこかで弾けるとすんごい作品を生み出してくれるような気がする。それを待ちながら、ぼくはくだらない日々を生きていこうと思う。
何が映画か 「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって 黒澤明 宮崎駿
黒澤明と宮崎駿、二人の巨匠の対談集。1993年初版。この時代、すなわち1980年代後半から1990年代初めの日本映画界をみてきた人たちは幸福である。実写とアニメの巨匠がそれぞれ刺激を受けながら活躍してきたのだから。黒澤監督は「まあだだよ」を作ったばかり。宮崎監督は「紅の豚」でのびのびとした作品を作り出してきた頃である。映画界の先輩後輩として、対談を行うのにベストなタイミングではないだろうか。
個人的には2人とも、映画作りと時代を意識した発言が多いのが記憶に残った。映画はやはり「時代」が作るものなのだろう。それは時代考証だし、公開される時代に受けるか否かであるし、後の世にどう残るかということでもある。
黒澤監督が自身の映画の細部を事細かに覚えていることも印象的だった。これは宮崎監督も付録で述べているが、黒澤監督が現場の人であった証左であろう。現場の苦労、現場の工夫、現場の力をよくわかっているからこそ、黒澤監督はその力を引き出すことができたのだ。結局の所、監督が映画を作るのではない。現場が映画を作るのだ。監督はその力を最大限に引き出すための存在なのである
映画作りの1つの時代を知る上でとても貴重な資料である。実写でもアニメでも、映画監督を目指す人に読んでほしい。
月夜のサラサーテ 森博嗣
森博嗣のつぶやき本、第7段。
見開き2ページで1テーマ。短い文章でスパッと切れ味のいい内容が展開される。
内容の関連性はほとんどないので、まさに思いつくままに書かれた文章なのだろう。それにも関わらず、しっかりした内容があることにいまさらながら驚く。
思うに、これはフォーマットがしかっりしているからではないだろうか。限られた文字数のなかで、起承転結を明確に文章を綴ることで、森博嗣クラスになるとどんな内容でもとりあえず一定のクオリティの文章が生み出せるのではないだろうか。
まぁ、そんなことは読み手には関係ない。ふと暇なときに適当にページを開けば、ビビッとくる文章を読むことができる。カバンにいれておいて損はない一冊だ。
代表的日本人 内村鑑三 著 鈴木範久 訳
明治時代。日本は荒れ狂う西洋文化の波に揉まれていた。そんな中で「西洋に対し日本人とはこういうものだ」ということを示そうと、英語で出版された一冊。そこには、西洋文化の激流の中で、それでも自国の文化や思想を失わずに生きたいという著者の考えがみえる。
紹介されるのは、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の5名。それぞれ、社会のために生きた政治家、優れた地方領主、努力と勤勉の聖人、真の教育者、世を正す宗教家、というところだろうか。
現代は、インターネットの普及により、ありとあらゆるものが高速化して社会の壁が薄くなってきた。地球上の社会が均等になろうとする一方で、自国意識が高まりつつ有る。America firstなんて言葉もずいぶん当たり前のように聞こえる。均質化と差別化のバランスのなかで、今は差別化が求められる時代なのだろう。こんな時代において「日本人らしさ」をぼくは見失っているような気がする。この本は、そんなぼくに少しヒントを与えてくれたのではないだろうか。
とはいえ、自国第一主義が素晴らしいことだとは思わない。行き着く先は戦争しかないように思う。ただ、自国に対して誇りを持つことも必要では有る。国を維持していくのであればだが。今の時代には、この本は冷静に読まなければいけないかもしれない。
影との戦いーゲド戦記 アーシュラ・K・グウィン
生まれついての魔法使いゲドは、その力に導かれるように成長していく。しかし、魔法学院での慢心から、かれは不用意な魔法により影を呼び出してしまう。ゲドと影の宿命を巡る旅が始まる。
これはいい物語である。現実を遠く離れ、しかし妙に現実感のある世界観。自然でありながらも教訓を含む物語。是非子どもたちに読んでほしい。そして大人も読むべきだ。この物語には「事を成す」ための教訓が詰まっている。そして、それはまさに生きていくために必要な教訓ではないだろうか。
どうも、ぼくは映画のゲド戦記が苦手でちゃんとみることができない。最初のゲドとハイタカが旅をしているシーンには惹かれるのだが、その後が続かない。テルーが出てきてしばらくすると気がつけば寝てしまう。
そしてこの原作1巻を読んで気づいた。なるほど全く別物なのだ。原作で語られるアースシーの世界は小さな島国(町)で構成されており、その島ごとの独特の文化がある。そのなかを渡り歩きながら、人と出会い、挑戦と妥協の中で、ゲドは少しづつ成長していく。その雰囲気を残しているのが映画の旅のシーンで、だからこそおもしろいのだ。一方で、その先にあるものは原作の力を借りない、宮崎吾朗監督なりのストーリーであり、キャラクターなのだろう。だから、今ひとつ力が足りないのだ。
現実の世界であれ、魔法の世界であれ、人はそこに意思を持って生きていかねばならない。この本のなかでは、魔法の世界の大きな運命の風のなかで、翻弄されつつも己の道を歩まんとするゲドの姿が描かれる。挫折と成長。すべてひっくるめて彼の人生であり、それを受け入れる心こそが心の力なのだろう。
万人におすすめしたいいい本である。