続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

光圀伝 冲方丁

 

光圀伝

光圀伝

 

 

書は、如在である(明窓浄机より)

 

 冲方丁が描く歴史もの。黄門様でおなじみ水戸光圀をと彼が生きた時代を描く。戦乱の世が終わり、徳川幕府が国を治める泰平の時代が幕を開ける。文武に才能余りある光圀はいつか己の大義を見出し、そして文治の世を目指し熱く生きる。

 どうも「マルドゥック・スクランブル」のイメージがあるので冲方丁はこんな歴史物もかけるのかとびっくりする。でも、本書にも出てくる安井算哲を主役に据えた「天地明察」も書いているし、不思議なことではないのかも。ついでに調べてると「12人の死にたい子供」も冲方丁の小説であった。なんでも書けるな、この人は。

 読みやすい文体でサクサク読める。歴史物だと変に古い言葉に拘ったりして読みづらいこともあるのだけれど、現代の言葉に置き換えてくれているですんなりと物語に入り込める。ちょっとうろ覚えだが光圀の感想に「ウザい」という表現が使われていて、攻めてるなーと思ったり。

 ぼくは歴史に疎いので、この物語がどこまで史実に忠実なのかわからないが、それでも当時の時代の風を感じることができたと思う。時代のうねりの中で人は皆自分の人生を生きている。大名だってのほほんと生きているわけではない。いや、大名だからこそのほほんとしていられないのか。江戸時代の大名はある意味将軍に仕え藩の民を牽引する中間管理職だ。

 本書のテーマの一つは「義に生きる」ということであった。光圀は兄から藩主の座を奪ったことに苦しみ、兄の息子を次の藩主とすることに義を見出す。こういう感覚はもはや現代には失われていると思うのだが、改めて思うと日本人らしいなのかもしれない。儒教の教えに始まり、日本国内で独自に醸造された感覚だ。

 本書の中でも光圀は日本人のルーツを考え、葬式を儒式で行う話が出てくる。仏教式の葬式が当たり前の世の中で、儒式に則った葬式を行うのは多くの困難があったようだ。

 現代の僕たちはどうだろうか。国際化が進み、多様化し、変わっていく世の中だが、無闇矢鱈に新しいものに飛びついてはいないか。むしろ世界に飛び出していく中で、自分の足元にあるものがなんなのか、それを知らないままになっている気がする。自分たちがどこから来て、どこへいくのか。そんな目線が必要だと感じた。