続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

邪魅の雫 京極夏彦

 

文庫版 邪魅の雫 (講談社文庫)

文庫版 邪魅の雫 (講談社文庫)

 

 

京極堂シリーズ代9弾。相変わらず熱い…いや、分厚い一冊にファンは安心するだろう。文庫本で1300ページである。講談社はもしかして重さで原稿料を支払っているんじゃなかろうか。いや、ページ毎でも同じだけど。文字数ではない気がする。いや、そんなことはどうでもいい。

 

本作のトリックはミステリとしてはありきたりである。誤認というかいわゆる「信頼できない語り部」である。それはミステリ慣れした人であればどこかで気づくものだろう。僕も大体半分ぐらいのところでなんとなく筋書きは読めた。いや、精々70パーセントぐらいなのだが。

 

というわけでトリックが読めてもなお、その先があるのが京極夏彦のすごいところだ。つまるところ、誤認であり、間違いであり、勘違いが事件を複雑化させている。そして物語が誰かの口から語られる以上、すべての物語は語り部の主観を逃れられないのだ。

 

この作品のすごいところは、このありきたりなトリックを何重にも仕掛けて見せたところであろう。Aの勘違いと、Bの勘違いと、Cの勘違いはそれぞれ違うのだ。でも結局それが噛み合って、物語を作る大きな勘違いの連鎖を形成している。そして、作者はコレを実にうまいことそれぞれの視点で描くのだ。その断片から、読者は違和感を覚えても、それをうまく言語化できない。「絶妙な誤差」がそこにある。

 

この辺りは作者の得意とする、あるいは関心の強いところなのであろう。処女作である姑獲鳥の夏からしてその要素は顕著であった。もちろん、ここまで複雑ではなかったが。そしてこれまでの作品全知を通して著者のテーマと思われるものが「個人の認知」である。人はそれぞれ身の回りの情報を取得し、噛み砕き、認識している。それは共通しているようで実に個人的な事象なのだ。だから、人が集まればそこには当然のように認知のずれが生じるし、埋まらぬギャップは超常の現象として認識される。そのギャップの刹那的な解決策の1つが怪異であり妖怪なのである。本作は「個人の認知」というテーマをぐっと押し広げた著者の実験的作品と言えるだろう。