続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

万引き家族 是枝裕和

 

万引き家族 クリアファイル

万引き家族 クリアファイル

 

 「おれたち、フツーじゃねぇからな」(とうちゃん)

 

カンヌでパルム・ドールを受賞した日本映画。観ない訳にはいかないだろう、と普段邦画は観ないのに映画館へ足を運んだ。

 

血縁関係などまるでない、訳ありの5人は、せまいボロ屋で暮らしていた。稼ぎはとうちゃんの肉体労働と、かあちゃんのパート、それからばあちゃんの年金。それだけで当然生活はなりたたず、日常的に万引きでそれを補っていた。ある時、万引き帰りのとうちゃんと翔太(にいちゃん)は真冬に家から閉め出され、うずくまっている女の子を拾う。家族に虐待されていたその子は鈴(りん)と名付けられ、万引き一家の一員となる。

 

最初は利害関係だけで、無理やり共同生活をしていた5人(最初の食事シーンで皆好きかってに座り、ばらばらに食事をしていることから人間関係の希薄さがみえる)は、鈴ちゃんの登場で次第にまとまっていく。か弱いものを守ろうと、彼らは本当の家族のようになっていく。鈴ちゃんが来てから、5人は一緒のこたつ机を囲んで食事をするまでになった。

 

光へのこだわりがすごく感じられる映画である。鈴ちゃんを加えた6人の生活は、けしてまともなものではない。相変わらず万引きしまくってるし、金に汚く、荒っぽい生活が続く。それでもどこか家族の愛を感じさせる、暗くとも温かい光が6人の生活シーンには採用されている。

 

一方で、ばあちゃんの旦那の家(ばあちゃんは旦那に捨てられた、らしい)や終盤に重畳する警察の尋問シーンは不自然に明るかったり、暗かったりする。世の中で普通や正義とされているものが、むしろ人間性を欠いた存在のようにみえるのは、この光の演出によるところが大きいと思う。

 

本作は、日本社会の闇を集合させたような作品だ。貧困問題、家庭内暴力育児放棄、捨て子、変に熱狂的なメディア、外面を取り繕う体質・・・。これらをつなぎ合わせ、ひとつの設定として消化しているあたりはすごく面白く、そして残酷な試みだ。そしてこんなテーマに取り組む是枝監督には頭が下がる。この映画の制作は、そうとうメンタルにくると思う。

 

そして、この映画を観て思い出した。映画の大切な仕事の一つは「暗闇を照らす」ことである。華やかなドンパチだけが映画ではない。皆が眼を背けようとしていることを、あえてまっすぐ見つめ、それを皆に知らせることはともも大切だ。是枝監督はみつめた。ぼくなど、アイロンで根性焼きをされたらどういう傷跡がつくのか想像するだけでも嫌である。

 

ところで、ラストシーン。本来の両親のもとへ戻され(戻ったのではない、戻らされたのだ)、マンションの廊下で遊んでいた鈴ちゃんは何かを見つける。それをじっと見る。これは何を意味するのだろう。ぼくは一見しただけではよくわからなかった。おそらく、にいちゃんが妹を助けに来てくれたのだと思うが・・・。

 

さて、いろいろ書き殴ったがトータルとして、ぼくはすごくいい映画だと思った。と、同時にこの映画がパルム・ドールを受賞したことを素直には喜べない気持ちにもなった。この映画に見られる日本社会の闇は、国際社会からみてもやはり闇なのだろう。そして、この闇は確かに日本社会に存在している。しかし、日本人はあまりそのことを意識できていないのではないか。もちろんマレなことなのかもしれない。だが、アパートの隣の部屋に住んでいる人の名前も知らないような日本人が、果たして実情を把握してるのだろうか。日本の闇は着実に広がり続けているのではないだろうか。それがこの映画に「もしかしたらありえるのかも」というリアリティを与えているのではないか。ぼくは、この映画が称賛される現代の日本社会を怖いとさえ思った。この映画が、誇大妄想で馬鹿らしいと、そう言われる社会であればと思った。

 

 

追記(2018-06-24)

よく考えたら、この物語の基礎となる「貧困問題」は、資本主義の社会にはつきものである。金というものを価値観の主軸に据える限り、金稼ぎの能力に乏しい人間は出てくる。〇〇主義とは◯◯「◯◯を持つものが正義」という考え方である。どんな国もなんらかの「主義」を掲げざるを得ない。主義を掲げてはじめて国民を導けるし、国際社会での立ち位置を明確にできる。

 

資本主義、社会主義、民主主義・・・。いろんな主義があるが、完璧なものは存在しない。そんななものがあれば、すべての国家はその◯◯主義を採用しているはずだ。すべての国は、国際社会の声と、国民の声のバランスをとって自国に都合の良い主義を選択する。ただ、今は資本主義が多くの国の利害に一致するのだろう。

 

資本主義は、金を持たぬものを救えない。資本を持たぬのは本人の責任であり、資本を持たぬものは、悪である。金を持つものが正義だ。金を稼ぐ才覚のないものは、アクに堕ちるしか無い。

 

どうしてこの映画が生まれたのか?資本主義が抑えきれなくなっったのだ。資本的弱者を。あるいは資本主義の限界に、気づいた人間が多々いるのだ。

 

なんだがネトウヨっぽい文章になってきた。でも、そんなつもりはない。現状、資本主義と民主主義以上の主義はないだろう。日本は、一応その2つを採用している。

 

しかし、資本主義である以上貧困問題はつきまとう。どうにかできないものか?