続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

スプリット ナイト・M・シャマラン

 主人公の女子高生ケイシーは友人(?)2人とともに、ある日見知らぬ男にさらわれる。男に監禁されながらも、脱出を試みる女子高生達。しかし、男の中にはいくつもの人格が存在していた。果たして「彼ら」からケイシー達は逃れることができるだろうか。
 シックス・センスのどんでん返しで名前を挙げたシャマラン監督の作品。本作も「ラスト3分は必見」という広告をどこかで見たように思う。どんでん返しばかりを期待されるシャマラン監督も辛かろう。
 そんな本作は「犯人は多重人格」というミステリではすでに使い古された設定の集大成とも言える作品であった。
 多重人格の犯人という設定の歴史は古い。おそらくジキルとハイドに始まり、現代まで連綿と受け継がれる。
 それらの歴史に対するリスペクトが本作中も見られる。24人の人格は「24人のビリー・ミリガン」から来るものだろう。人格の主導権(照明)の設定とかもここから。1つの肉体に善と悪が存在するのは、ジキルとハイドの主題でもある。人格によって肉体そのものが変化するのはユージュアル・サスペクツからか。
 今さらこんな使い古された設定で、シャマラン監督がやりたかったことはなんであろうか。
 僕が思うに、おそらく監督はダーク・ヒーローを誕生させたかったのだ。
 人間を超越した存在として描かれる第24の人格こと「ビースト」は人間を人間の限界を超えている。わずかな凹凸をつたい垂直な壁を登る。超人的な筋力で人間を圧殺する。鉄格子を素手でひん曲げる。
 一方で、ビーストは「弱者こそ汚れなき存在である」という思想を持っている。この思想が叔父に性的虐待を受けていたケイシーに大きな影響を与えたことは作中否定できまい。彼女の心を救うという1点でのみ、ビーストはヒーローであった。ケイシーが最後にパトカーの中で魅せた決意の表情には、その真意を読み取ることはできないが、ビーストがケイシーに与えた影響の大きさを物語っている。
 どうやら本作はシャマラン監督の過去作「アンブレイカブル」の続編であるらしい。登場人物達の決着は次の作品で着くのだろうか。
 ケイシーの決意は何を意味するものであったのだろうか。ぼくは「性的虐待を繰り返した叔父をへの反旗の印し」であるとみた。絶望に囚われた少女は狂気のダーク・ヒーローに感化されよって自由を得るのではあるまいか。彼女にとってビーストはヒーロー以外の何者でも無い。作中、ビーストは唯一ケイシーのう存在を認め、そのことにケイシーは涙するのだ。
 シャマラン監督の次回作こそが答えだろう。お願いだからスポンサー企業はシャマラン監督の好きにやらせてほしい。それこそがみんなが求めている答えなのだ。どうかシャマラン監督の答えを。
 あと、もう一点。やはり本作では「1人で24人格役」をこなすジェームズ・マカヴォイの演技に注目である。多重人格ものでは当たり前の要素なのだが、マカヴォイのクオリティはすごい。人間の外見が如何に信用できないものかの例題になるだろう。