続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

感覚を磨く

感覚を意識すること、のメモ。

「感覚」というのはなんだかよくわからない。よくわからないが、なんとなく「変だなぁ」とか「しっくりこないなぁ」と思うことはある。しかも、大体の場合は理屈抜きだ。念のためにきっちり確認しなおしても、やはり見直すと「感覚的に変」なことはままある。

これはどこから生じるのだろうか。たぶん、問題は脳が騙されることにあると思う。

ぼくらは世界に溢れる情報を「ありのままに」受け止めている・・・つもりでいる。しかし、実際は脳の方で勝手に色々処理が施され「歪んだ」ものを見ていることのほうがたぶん多い。錯視なんてのはその典型で、同じ長さのものが違って見えたり、平行なはずの直線がずれて見えたりする。すべて脳が勝手に行う処理なので、ぼくら自信にはどうしようもない(もっとも膨大な情報を効率良く処理する上で、脳のこの勝手な処理が重要なのだろうが)。

というわけで、「感覚のフィルターを介した世界」と「実際の世界」にはビミョーなズレが生じている。だから科学では多くのヒトが同じ条件で同じ現象が起きることを確認して、初めてその現象が本物と認めてもらえるわけだ。この場合は多くのフィルターを通すことで、ビミョーなズレを極力小さくしている。感覚というものの存在を意識しなくては、科学は遂行できない。

逆に感覚を意識することで、感覚を利用することも必要である。
ぼくらが何かを作るとき、何かをヒトに見せるとき、必ず相手は感覚のフィルターを介してそれらを捉える。自分の伝えたい事を正しく伝えるには、相手のフィルターを通過できるように情報を加工してやらなくてはならない。「理論的に正しい」よりも「感覚的に正しい」情報が相手には伝わる。だから、作品の最後の仕上げは感覚的に行う必要がある。

他人の感覚のフィルターを完全に理解することはできない。しかし、ある程度はトレーニングと経験でそれらしいフィルターを自分の中に構築することはできる。多くの感覚のフィルターを自分のなかに構築し、様々なフィルターでものを視ることが、感覚を磨くということなのだろう。