続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

流れ

「流れ」という概念についてメモ。

「流れ」とは現在の「ある一点におけるものの動きのベクトルの向きを見たもの」だと思う。ベクトルの存在はものの動きの前後を想像させてくれる。例えば「→」というベクトルは、次に右向きに進もうとしているということと同時に、おそらくこのものは左からやってきたんだろうということを想像させてくれる。
つまり「流れ」は前後関係の中にある。過去をふまえて未来をみすえて現在が流れる。これは「生きること」も同じじゃあないだろうか。

ぼくたちが「命」を感じるとき、そこには「流れ」が存在していると思う。変化しない物は生きていない。植物だって変化を続ける。サナギだって中で変化を続ける。ただぼくたちの感覚ではとらえにくいだけだ。そしてやはりそこにはベクトルが存在している。サナギはいつか蝶になるし、サナギの前にはイモムシだったはずなのだ。つまり、生きものは流れている。

一つ一つの粒子が流れていると、個々としてはランダムな流れであっても全体としての傾向が生じる。100個の粒子のうち60個が右に、40個が左に流れれば、全体としては右に進んでいるように見える。誰が意図したわけでもないが、偶然生まれた偏りは、「個々の流れ」から「全体としての流れ」を作る。この全体としての流れはぼくらの感じるところの流行だとか社会の動きとして捉えられるのだと思う。そして一つ一つの社会が流れるなら、もっと大きな視点で見れば世界は流れているわけだ。

「流れに乗る」という表現がある。世界が流れている以上これは大切なことで、流れに乗れないものは生きづらい。ベクトルは足し合わせることができるので、自分のベクトルに世界のベクトルが乗っかれば、より大きな流れを得ることができるのだ。逆に世界の流れに逆らったりすると自分のベクトルから世界のベクトルを引かなくてはならない。効率は悪いし、下手すればマイナスで、自分の意図とは違う流れに巻き込まれて溺れてしまう。

世界の流れに乗っかって、ひょうひょうと生きていくのが楽しい生き方だとは思う。ものごとはうまくいった方が楽しいし、逆流の中で失敗ばかりじゃいつか心が折れてしまう。同じ生きるなら楽しい方がいいと思う。ただ、ぼくはあまのじゃくなので世界の流れに逆らって、がむしゃらに流れようとしている人が大好きなのも事実だ。