続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

理屈じゃないもの

 理屈っぽいことばっかり考えていたら、「理屈じゃないもの」の大切さに気付いたのでメモ。

 一応ぼくも大学の研究室に所属させてもらい、右も左もわからないまま研究(といっても卒業研究だけど)をやらせてもらっている。ただ、どんなことをやるにしても「自分流のスタイル」は必要だと思うので、先輩や先生を参考にしながら色々模索している。

 その模索の中で、今日ふと気がついたのが「理屈じゃないもの」の大切さだ。今思うとぼくのこれまでのスタイルは、まずなによりも理屈ありきであった。簡単にいうと「○○ということが過去に証明されているので、××だと考えます」という感じだ。先に理屈を用意し、それに合うように実際の現象を解釈しようとしていた。

 しかし、冷静に考えるとこれはおかしい。研究の対象はあくまでも「実際の現象」なのであって、すべての入り口はここであるべきなのだ。「理屈」を最初に用意するとその時点で「思考の幅」が制限されてしまう。自分自身で勝手に選択肢を削ってしまうのは愚かな行為だ。だからまずは「実際の現象」をよく観察しなくちゃあいけない。観察したものに対して理屈を考え、その理屈の正否を過去の情報に照らし合わせて検証していくのが正しい道筋だ。この場合、正しいゴールに辿り着くのに一番重要なのは「入り口」だと思われる。どんな現象でも見方によって様々な「入り口」が存在する。ぼくらはこの様々な入り口から、最も正しそうなものを選んで突入していく。もし、入り口がゴールからめちゃくちゃ遠かったり、向きが逆だったりすると簡単にはゴールにたどり着けない。「正しい入り口を選ぶこと」がその後の全てに影響を与える。

 では「正しい入り口」を選ぶにはどうすればいいのか。理屈を用意すると縛られてしまう。自由に、あるがままに、観たものを、聴いたものをとらえるにはどうすればよいのか?
 思うに大切なのは「直感」だ。「〜のような気がする」というような感想が重要になってくる。できるだけ頭を使ってはいけない。ただなんとなく、ときは脊髄反射で閃いて得られるものが大切だ。そこには理屈の入り込む余地はなく、純粋な生のデータが存在する。もちろん間違いは多々あるとは思われるが、データが正しいのか、間違っているのか、それを検証していくことも含めて、研究の醍醐味なんではないかと思う。そういうことも含めて経験や知識を積んでいくことが勉強なんじゃないだろうか。