続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

波紋

メメタァ!カエルは潰れていない!


 とは全く関係なく、コミュニケーションについてです。
ぼくの同僚に1人非常にかわった子がいる。こんなこといっちゃ悪いけど「変人」という言葉がしっくりくる感じの子。いわゆる「空気読めない」タイプ。周囲の状況に流されない人なので、わりとタブーなことでも平気でガンガン突っ込もうとする。目上の人に平然と暴言を吐く(主に質問の形で)ので、周囲に戦慄が走ることも多い。はっきり言って怖い。同僚や先輩が注意しても、「はぁ。そうですか。」という」感じでまさに「ぬかにくぎ」状態。


 単純にいえばコミュニケーション能力に欠けるということなのだと思うのだが、もう少し深く「なぜコミュニケーション能力に欠けるのか」ということを考えなければ、だめな気がする。
結論からいうとこの子は「自分がとった行動が他人に影響を与える」ということを理解していないのだと思う。コミュニケ―ションっていうのは、個人が起こした行動に対して他人が変化を起こすことで成立する。「行動」は口に出すことでも、文章に起こすことでも、歩くだけでもいいし、なんならただぼーっとしているということでもいい。人は常に波紋を起こし続けているともいえる。「変化」についても行動の変化でも、心の変化でもいい。
やっとここでタイトルの「波紋」が絡んでくるが、「行動」=「波紋」であり、「水面に浮かぶ葉っぱの動き」=「変化」と考えればわかりやすい。個人が起こした「波紋」は水面上のあらゆる方向へ広がり「葉っぱを動かす」のだ。「波紋」の大きさにも大小あるが、「波紋」が届いた「葉っぱ」必ず動く。
人間の行動は多かれ少なかれ波紋をおこし、周囲の人間に影響を与えている。たいていの人はそれを理解し、自分がおこした波紋が周囲にどういった影響を与えるかを考慮して動いているはずだ。何気ない会話ひとつでも、自然と相手の返事をある程度予想しながら会話するだろうし、メールなんかは特に相手が返事しやすいように文脈や表現を変えるだろう。
 

 しかし、ぼくの同僚の子はそういった影響を考えないのだろう。たぶん。自分の起こした行動が、すべて自分の中で完結しているだけだと思っているのだ。「質問をした」なら質問しただけで、その質問が相手に与える影響を考えない。「ただ答えを待っているだけ」なのだ。だから平然とタブーに触れるし、目上の人にも堂々と暴言を吐く。ある意味周囲を一切顧みない究極の自己中なのかもしれない。
また、この子は自分の行動に対して責任感がないのかもしれない。すべてのことが自分の中で完結しているので、責任を負う必要がないのだろう。責任を負っていないから、注意されてもいまひとつなぜ注意されているのかがわからない。それが注意する側には「ぬかにくぎ」に思えて余計に悪い印象を与えてしまう・・・。


 自分なりに考えてみたが、うまい解決策は見いだせなかった。それも残念だが、むしろ怖いのはこの考察がもしもあたっていたら、この子は「淡々と効率的に作業を重ねるかのように生きている」ということになる。そんな灰色の人生はやめてほしい。せっかく生きているのだからもっと非効率的に、おもしろおかしく生きてほしい。ぼくの人生観を押し売りするようで嫌だが、人生おもしろいほうがいいと思うのだ。