続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

暇と退屈の倫理学 國分 功一郎

 

 

だから余暇はもはや活動が停止する時間ではない。それは非生産的活動を消費する時間である。

 

東京学で教鞭をとる著者が、暇と退屈をテーマに語る哲学の一冊。

 

哲学書と聞くとか苦しい印象を受けるが、本書は非常に読みやすい。一般大衆を読者として想定して一言一句を選んでいることが読んでいるとよくわかる。カッコ良い専門書にしたければいくらでも難しい用語で装飾できるのに著者はそんなことはしていない。

 

「なんで暇と退屈なんてくだらないものを取り扱うんだ」と多くの人は思うかもしれない。しかしきっと、この本を通読すればその考えはどこかに消えてしまう。暇と退屈こそ、人間が生きるにあたって最も重要なことのように思われることだろう。この本は、なにか価値観をひっくり返すようなパワーを秘めている。

 

個人的には、現代の欲望のあり方についての考察に度肝を抜かれた。著者が語るには、現代社会は消費社会であるという。そこでは、物を消費しているようにみせかけて、人々は「価値や概念を消費させられている」という。つまり、極端な言い方をすれば人々は需要に基づいてものを買うのではなく、造られてしまったもの(売られてしまったもの)を企業のマーケティングによって買わされているのだ。

 

「そんなばかな。私は私の意志で買い物をしている」という人が多いと思うが、一方で衝動買いをしたことがない人もほぼ居ないだろう。現代社会においては、人間は欲しいから買うとは限らない。売っているから買ってしまうのだ。

 

とはいえ、このあたりはまだまだ序章という感じで著者の考察は人類の歴史や人が生きるということにまでおよんでいく。「暇と退屈」という切り口には、それほどの可能性があるのだ。

 

人間に興味のある方にぜひ読んでもらいたい一冊。

 

 

鳥類学者だからって、鳥が好きだと思うなよ 川上和人

 

 

 鳥類学者・川上和人さんのエッセイ。日々の研究活動、とくに離島等への調査活動についておもしろおかしく語る。

 

 なんというか、こういうのが生粋の研究者なのであろう。意味があろうがなかろうがおもしろそうなものを知ろうとする。基礎科学をないがしろにしてきた現代日本において、大変貴重な人材である。

 

 根っからのオタク気質らしく、あれこれと小ネタをはさみつつ、語られる研究談はとても楽しい。そこには純粋な興味があり、楽しみがあり自虐がある。恵まれた人が世の中にはいるものだ。もちろん、自分で勝ち取ったものだろうけれど。

六番目の小夜子 恩田陸

 

 とある進学校には伝説とも言える伝統があった。3年に一度、学生の一人が「サヨコ」に選ばれる。サヨコは正体を知られぬように一年間のイベントをこなし、学園祭の劇で主役を務めるのだ。サヨコの活躍はその年の大学受験の成否と関わるとされていた。謎にみちた伝統を下敷きに、高校は今年「6番目の小夜子」の年を迎える。

 

 青春・ホラー・ミステリ。そんな言葉をかけ合わせてできたような小説。たぶん、中学時代に読んだら楽しめたのだと思うが、今現在いいおっさんのぼくには少々辛い。というのもこの小説は「雰囲気」を味わうことが求められるからだ。想像力たくましく、あれやこれやと妄想を繰り広げながら読まないと楽しめない。仕事でくたびれたおっさんは休日とはいえそんな馬力が残っていないのだ。

 

 というわけで、ぼくはこの本について何もいう資格がない。強いて言わせてもらうなら、オチはちゃんと付けてほしかったというところか。しかし、まぁそれも雰囲気作りの一環といわれればそのとおり。うーむ。

ひとはなぜ戦争をするのか  アルバート・アインシュタイン、ジークムント・フロイト

 1932年、国際連盟は物理学者・アインシュタインに依頼した。「この文明において最も重要な問題について、最も意見交換したい人と書簡を交わしてください」と。テーマは「戦争」に決まった。相手は心理学者・フロイト。20世紀最大の頭脳が、人類最大の問題に今向かい合う。

 往復書簡なので、手紙は一通ずつ。本としても薄い一冊。さらりと読める本ながら、現代にも通じる示唆に富む議論が応酬される。結局、人類は2度の世界大戦を経てもまだ同じところをウロウロしている。それ程にこの質問は深い。

 個人的には、こういう理系と文系の対話(この表現が既に日本独特な考え方かもしれない)を西洋文明が大事にしていることに感心した。自然科学と人文知、それらは補い合うものであり、表題のような質問に答えるには方法論として両面からのアプローチが必要だ。「そういう問題があること」にすら多くの日本人は気づいていないのではないだろうか。理系は理系、文系は文系と、世界を分断してもこの世界を知ることができるわけもない。学問の価値…みたいなものがこの一冊に顕れているような、そんな気がする。一生懸命、国や世界や世の中を良くしようとするのに、研究分野など関係ない、ということだろうか。

 戦争について考えてみたい人がまず読むべき一冊。

 

春の雪 豊饒の海(一) 三島由紀夫

 

 「今、夢を見ていた。又、会うぜ。きっと会う。滝の下で」(松枝清顕)

 

 三島由紀夫の最後の長編大作。その第一巻。時は明治。公爵家の若殿である清顕は、伯爵家の聡子に密かに思いを寄せる。しかし、二人の気持ちと行動はすれ違い、事は両家の命運を巻き込む大事へと発展していく。

 

 たぶんこの一巻は「日本的なもの」を追求した作品ではないだろうか。著者の生きた時代、戦争に敗け西洋文化の荒波に飲み込まれていく中で、日本の国は時間的にも空間的も分断されていたのだと思う。そんな中で、「この国はなんなのか?」ということを模索するのは当然のことではなかったか。三島由紀夫なりの答えがこの一冊にあるように思われる。その日本的なものは、登場人物の他者を慮り己を押し殺すストイックさであり、侍のような忠義であり、天皇を奉る思想であり、「家」という制度に現れる。そういうものが洗練され、頂点を極めていたのが物語の舞台となる明治時代であったのか。

 

 上にあげたような日本的なものは、現代のわれわれからすると古臭いし、必要のないものだ。今更そこにもどる必要はない。だが、一つ問題があるとすれば、われわれは文化を洗練して今の形に行き着いたのではなく、戦争に敗けて文化を捨て去って西洋化してきたのだ。だから、三島由紀夫は「日本人を日本人たらしめるものはなんなのか?」と読者に厳しい質問を突きつけているように思う。

 

 さて、メインストーリーは恋愛ものなのでぼくは苦手だ。あんまり好きではない。一方で、このあとの巻につながる伏線がそこかしこに張り巡らしてあるらしい。そして、そのことはすべてを読み終えた最後のページでサラリと示唆される。「ああそうか。この一冊を通して豊饒の海という作品に挑む下準備ができたのだ。まだぼくは入口をくぐっただけに過ぎない」ということがわかり、俄然続きが気になってしまう。さすがの構成力である。

落語的笑いのすすめ 桂 文珍

 

 落語家・桂文珍慶應義塾大学で笑いについての講義を行う。その模様を書き起こした一冊。

 

 読む前は、大学1年生向けの一般教養の授業だろうし表面的なお笑い論なんだろうなと思っていたが、読んでびっくりしっかりとした哲学の伴う深いお笑い論だった。人はどうして笑うのか?笑うことには一体なんの意味があるのか?笑いを生み出す仕組みとはなんなのか?そんな疑問に答えつつ、包括的に「笑い」というものを論じていく。

 

 さすが噺家だけあって、軽妙なトークは文字になっても読みやすい。お笑い入門書として最適の一冊だと思った。

夢を釣る 佐伯泰英

 

 

 神守幹次郎は吉原の裏同心。吉原で起こる問題に知略と剣術で立ち向かう。

 

 なんかテキトーに中古で買った一冊で、シリーズ5作目であるらしい。1−4作は未読なので、背景がよくわからないままダラダラ読んだ。登場人物などの背景が掴みきれないので、もうひとつストーリーは楽しめなかったが、江戸時代の吉原の雰囲気だったり、当時のルールみたいなものを感じ取ることはできて面白かった。馬鹿な話だが「沽券」という言葉の本来の意味をこの本で知った。それだけでも100円の価値はあったかな。