続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

ICO 霧の城 宮部みゆき

ICO-霧の城- (講談社ノベルス)

ICO-霧の城- (講談社ノベルス)

 プレステ2の同名ゲームのノベライズ。著者がゲームにハマったのがきっかけらしい。
 ぼくはゲーム未プレイ。なんとなくタイトル、装丁(どうもゲームと同じらしい)が気に入って、いわゆるジャケ買い。どうも、読者としては今ひとつだったようだ。
 今ひとつ作品の世界観に入り込めなかった。たぶん、ゲームをやっていたらもう少し情景がイメージできるんだろう。設定やストーリーにも、違いはあるようだがもう少しなじみを持てたのだろう。
 結局、序盤以外はあんまり楽しめなかった。中盤からはだれてしまい、終盤に真実があかされても「ああ、そうですか」という感じ。なんとか読破した。どうも疲れる読書になってしまった。

ローガン マーク・ハミル

Logan [Blu-ray] - Imported

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「背負って生きろ。全部」(ローガン)

 時は2029年。超能力を備えた新たな人類、ニュータントは滅びの危機に瀕していた。かつてX-MENの一員であったウルヴァリンことローガンは、ドライバーとして生計を立てつつ、アルツハイマー病で力のコントロールができなくなりつつあるプロフェッサーことチャールズの面倒をみていた。もう何年も新たなミュータントが生まれてこないとされるなか、ローガンはミュータントの少女と遭遇する。自身と同じ能力、力をもつ少女を前に狼狽えるローガン。チャールズは「君の娘だ」と、その少女「ローラ」を救うようローガンを諭す。
 XーMENから派生したウルヴァリンシリーズもついに最後。アメコミヒーローもので、子供向け路線できたXーMENだが、本作は違う。なんとRー15指定で子供達を映画館から追い出したのだ。タイトルもヒーロー・ウルヴァリンではなく個人名であるローガン。ポスターに映るローガンはボロボロである。
 期待しすぎは良くないといつも思っているのだが、この映画は期待に応えてくれた。物語の最終章を見事に結んだ作品と言えると思う。ウルヴァリンというヒーローの物語ではない。ローガンという1人の男の物語の終わり。そしてミュータントという新たな種族にとって大きな節目が迎えられる。
 作品全体に西部劇の影響が強く観られる。荒野を舞台とする戦いや、ハードボイルドな世界観。罪を抱えた男・ローガンの生き様は「許されざる者」を彷彿とさせる。ヒーローではない。一人の男としてのローガンの苦悩が描かれる。その苦しみは超能力などとは関係ない。「人を殺した」という事実から来る、自分を受け入れることの出来ない苦しみである。また、その能力故に人より長く生きてきたローガンであるが、その素性故に人生は叩きの日々であった。安らぎを知らず、過程の温かみを知らず、普通の幸せを受け入れられないストイックすぎるローガンの精神はボロボロであった。
 さらに骨格に結合されたアダマンチウムは、その毒性によってローガンを苦しめる。もはやヒーリング・ファクターの力は衰え、ローガンは以前の超人ではなかった。死に場所を求めるかのようなやけっぱちな生き方もローガンを壊していった。
 新キャラ、ローラはローガンの娘とでもいうべき存在である。あのウルヴァリンがパパになるとは!本作はかつてのヒーロー・ウルヴァリンが、一人の男。ローガンになり、そしてパパになる過程を描く物語である。そして、ローガンに欠けていた「普通の幸せ」がもたらされる物語である。乗馬マシーン(遊園地の遊具みたいなやつ)が止まって駄々をこねるローラに、「コレで最後だぞ」といいながらコインをいれてやるローガンを観ることになると誰が思うであろうか。2人の絆が結ばれていく過程を是非映画館で観て欲しい。
 ヒュー・ジャックマンの演技は流石のもので、ストイックながらも情熱的、衰えながらもパワーあふれるローガンを見事に演じている。
 加えてローラ役のダフネ・キーンの演技もすごい。危機迫る戦闘シーンやアクション。心を閉ざしながらも、次第にローガンに心を寄せていく演技がすばらしい。ローガンがパパになっていくように、ローラは戦闘マシーンから娘へと変化していく。
 ウルヴァリンシリーズを観てきた子どもたちにもぜひ観て欲しい。大きくなってから。ヒーローだって人間なのだ。
 そして、最後にマーク・ハミル監督、ヒュー・ジャックマンパトリック・スチュワートらの「作品をしっかり終わらせる」という意志を感じて欲しい。

きりぎりす 太宰治

きりぎりす (新潮文庫)

きりぎりす (新潮文庫)

負けた、これはいいことだ。そうでなければいけないのだ。(黄金風景より)

 太宰治はつくづく優しい。周りの人の一挙手一投足、一言に必要以上に感じ入り、そして悩む。この短編集ではそのようなエピソードが描かれる。ほんの些細なこと、忘れて今を楽しべば良いこと。でも、そうできない人間もいる。あまりにストイック。あまりに理想主義。それでも日々を生き抜こうとする足掻き。そういったものを感じる短編集だ。
 ぼくが気に入ったのは『畜犬談』。犬が嫌いだ嫌いだという主人が、なんだかんだで犬をペットにするお話。なんとも可笑しいお話で、太宰治らしくないが、この短編集の中で休憩所のような位置付けになっている。ツンデレの走りかも知れない。

まる子だった さくらももこ

まる子だった (集英社文庫)

まる子だった (集英社文庫)

 相変わらずクスッと笑わせてくれるさくらももこのエッセー。
 この本の最後には糸井重里との対談も収録されている。個人的にはここが一番おもしろかった。それぞれの人生観というか、世界観のようなものが垣間見えるように思う。ちょっと新鮮なまる子ちゃんの一面だった。

It follows ジェイムズ・ミッチェル

 設定は面白い。映画を見てみたい気になる。だもそれだけ。ルールを生かして、もっと頭脳戦があるといいのだが。
 いいアイデアなのでもっと寝かせて欲しかった。焦って作ってしまった映画という印象しかない。

スプリット ナイト・M・シャマラン

 主人公の女子高生ケイシーは友人(?)2人とともに、ある日見知らぬ男にさらわれる。男に監禁されながらも、脱出を試みる女子高生達。しかし、男の中にはいくつもの人格が存在していた。果たして「彼ら」からケイシー達は逃れることができるだろうか。
 シックス・センスのどんでん返しで名前を挙げたシャマラン監督の作品。本作も「ラスト3分は必見」という広告をどこかで見たように思う。どんでん返しばかりを期待されるシャマラン監督も辛かろう。
 そんな本作は「犯人は多重人格」というミステリではすでに使い古された設定の集大成とも言える作品であった。
 多重人格の犯人という設定の歴史は古い。おそらくジキルとハイドに始まり、現代まで連綿と受け継がれる。
 それらの歴史に対するリスペクトが本作中も見られる。24人の人格は「24人のビリー・ミリガン」から来るものだろう。人格の主導権(照明)の設定とかもここから。1つの肉体に善と悪が存在するのは、ジキルとハイドの主題でもある。人格によって肉体そのものが変化するのはユージュアル・サスペクツからか。
 今さらこんな使い古された設定で、シャマラン監督がやりたかったことはなんであろうか。
 僕が思うに、おそらく監督はダーク・ヒーローを誕生させたかったのだ。
 人間を超越した存在として描かれる第24の人格こと「ビースト」は人間を人間の限界を超えている。わずかな凹凸をつたい垂直な壁を登る。超人的な筋力で人間を圧殺する。鉄格子を素手でひん曲げる。
 一方で、ビーストは「弱者こそ汚れなき存在である」という思想を持っている。この思想が叔父に性的虐待を受けていたケイシーに大きな影響を与えたことは作中否定できまい。彼女の心を救うという1点でのみ、ビーストはヒーローであった。ケイシーが最後にパトカーの中で魅せた決意の表情には、その真意を読み取ることはできないが、ビーストがケイシーに与えた影響の大きさを物語っている。
 どうやら本作はシャマラン監督の過去作「アンブレイカブル」の続編であるらしい。登場人物達の決着は次の作品で着くのだろうか。
 ケイシーの決意は何を意味するものであったのだろうか。ぼくは「性的虐待を繰り返した叔父をへの反旗の印し」であるとみた。絶望に囚われた少女は狂気のダーク・ヒーローに感化されよって自由を得るのではあるまいか。彼女にとってビーストはヒーロー以外の何者でも無い。作中、ビーストは唯一ケイシーのう存在を認め、そのことにケイシーは涙するのだ。
 シャマラン監督の次回作こそが答えだろう。お願いだからスポンサー企業はシャマラン監督の好きにやらせてほしい。それこそがみんなが求めている答えなのだ。どうかシャマラン監督の答えを。
 あと、もう一点。やはり本作では「1人で24人格役」をこなすジェームズ・マカヴォイの演技に注目である。多重人格ものでは当たり前の要素なのだが、マカヴォイのクオリティはすごい。人間の外見が如何に信用できないものかの例題になるだろう。

陰摩羅鬼の瑕 京極夏彦

文庫版 陰摩羅鬼の瑕 (講談社文庫)

文庫版 陰摩羅鬼の瑕 (講談社文庫)

『間違っているのではなく、違っているのですよ』(京極堂)

 相変わらずのレンガ本。しかもだんだん厚くなっている。それでもたまに読みたいと思うのは、恐るべき情報量で造られる物語と、京極堂の憑き物落としの爽快さを求めているだろうか。
 前作、塗仏の宴はオールスター戦という感じだったが、今作は少数精鋭。姑獲鳥の夏を思い出すメンバー構成になっている。鳥の妖怪である陰摩羅鬼を扱うにあたり、同じく鳥である姑獲鳥を意識しているようだ。
 ストーリーもなんとなく姑獲鳥の夏に近い。周りから隔離された華族の屋敷。そこで起きる殺人事件。朦朧とする関口、探偵なのか榎木津、出番が少ない木場、そして我らが京極堂
 残念ながら謎解きは簡単。中盤まで読めば、ここまでシリーズを読んできた飼いならされた読者には結末が概ねわかってしまうのだろう。この辺り、賛否両論であるようだ。
 それでも十分楽しんで読めた。変に登場人物が多くごちゃごちゃした話より、今回のようなスッキリしたスタイルがぼくの好みであるようだ。