続: ぼくの一時保存

主に読書ブログ。たまに頭からはみ出したものをメモ。

この世界の片隅に

この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック

この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック

映画を見てきました。

広島市から呉市へ嫁入りしたすず。のほほとした性格の彼女の生活を戦争がじわりじわりと蝕んでいく。

主人公・すずはぼんやりした空想癖のある女の子。絵を描くのが趣味である。呉市の周作に見初められ、嫁入りするところから物語は始まる。慣れない生活、新しい人々との出会いに戸惑いながらもすずはすずは自分らしく生きていく。一方で、次第に悪化していく戦況。果たしてすずの運命は。

戦争の中にありながらすずさんは「ふつう」の感覚を保っている。この「ふつう」とは我々観客の基準で言うところの「ふつう」だ。周りの人々は戦争に飲み込まれていく。戦争という環境に適応していく人々の中で、すずさんだけは我々と同じように平和ボケしたようなおっとりさを持っている。
この物語は戦時下に「平和ボケした現代人」を放り込んだらどうなるのか、というお話なのだ。

すずさんの周りに、そしてすずさん自身に戦争がじわじわと影を落としていく。個人的には「亡骸を見ても、自分の子供だとわからなかった」と淡々と話すおばさんが最も印象に残った。

先を読む頭脳 羽生善治 伊藤毅志 松原仁

先を読む頭脳 (新潮文庫)

先を読む頭脳 (新潮文庫)

『私はトンネルを左側からスコップで掘っていき、右側からはショベルカーで掘っている姿を連想してしまいます』(人類とコンピュータの関わりについて、羽生善治

将棋界の名人羽生さんの言葉を、心理学の 、コンピュータ将棋の2名の大学教員が解説するという一冊。

将棋という俗世から離れた世界(本書で羽生さんが述べるように将棋は性善説のもとに成り立つゲームである)をわかりやすく理解するのにもってこいの一冊だ。

特にコンピュータ将棋の立ち位置や、それに対する羽生さんよ見解は興味深い。とはいえ、この本はもう10年も前前のもの。ムーアの法則に従ってコンピュータは爆裂に進歩している。一方、羽生さんを人間もさらに修練を積んでいる。

そういえば、ついに羽生さんが公式大戦の場に出てくると聞いた。ここ最近の将棋コンピュータの活躍によるのだろう。果たして、どういう結果になるのだろうか。

玩具修理者 小林泰三

玩具修理者 (角川ホラー文庫)

玩具修理者 (角川ホラー文庫)

『物語を聞いたからには、その物語の語り手は実存しなければなら---』(小竹内の引用)
子供達の壊れたおもちゃをなんでも直してくれる玩具修理者。しかし、その存在は謎に包まれている。
生理的に嫌悪感を感じるところを著者はよくわかっている。どうしようもなく、ゾクゾクと嫌な感じと恐怖が募る。短編でありながら実に鋭いと思った。
「修理」というこういをこうも気持ち悪く表現することもなかなか無い。

同時に収録されている『酔歩する男』はSFホラーといったところか。滑り出しとは全くちがう、恐ろしい世界がそこにある。

何気ない恐怖をシンプルに表現した1冊だ。

ちぐはぐな部品 星新一

ちぐはぐな部品 (角川文庫)

ちぐはぐな部品 (角川文庫)

『逃げる方が鬼なの、追っかける方が鬼なの?』(鬼ごっこをする子供達)

星新一ショートショート。SFものを中心に、ギャグ、パロディ、落語のアレンジまで、様々なお話が含まれている。数えてみたら全部で30作。1日1話読んで1か月だ。持ち歩いてちょっとした空き時間に読むのに凄くいい本である。

遠野物語remix 柳田國男×京極夏彦


そう思い定めた途端、見慣れた妻の顔は化け物にしか見えなくなった。

正直、柳田國男のことはよく知らない。なんせ古い時代の人だし、本業は物書きではない。しかし、日本の文学の歴史に大きな足跡を残す存在なのはそこかしこで感じられる。

本書は柳田國男の妖怪説話集である『遠野物語』を京極夏彦が現代人に読みやすくアレンジしたものである。個人的に、現時点で京極夏彦最大の仕事ではないかと思う。昔、原作にチャレンジしたことはあるが、こちらは仮名遣いが古すぎて読み切れなかった。本書なら、読める。


妖怪物語として、また民俗学的な資料として遠野物語の価値は大きい。また地名に関する柳田の考察も面白い。事実だけを淡々と述べ、想像の余地が大きい。怪談向きの文章である。現在より夜の闇が深かった時代。果たしてその闇にうごめくものはなんだったのか。そして、その闇は現代にもまだ残っているのだろうか。

セッション

 

 音楽大学の学生ニーマンはドラマー志望。孤独に練習を続ける彼を見出したのはフレッチャー教授。ニーマンはフレッチャーが率いる学内最高のバンドに入ることになるが、そこでフレッチャーの想像を絶するしごきがはじまる。

 

ニーマンの青春を軸に物語は進む。フレッチャー・バンドへ招かれ浮かれ、ボロクソにシゴカれて凹み、恋をし、失敗と成功を繰り返す。これがトランペッターの物語なら、どこかで観たようなお話だろう。ドラマーというところが渋い。

 

音楽素人のぼくからすればドラマーは地味な印象だ。座ってるから派手な動きはしずらいし、リズムを刻む役割だからあまり音が全面には出てこない。

 

しかしニーマンのドラムは壮絶だ。汗を滝のように流し、スティックを持つ手は血まみれになる。ドラムだけワンシーン持つぐらいの迫力がある。すごい。ドラマーのかっこよさを始めて理解できた。

 

また、もう一人の主人公フレッチャー役のJK・シモンズの演技がすごい。狂気をひしひしと感じる。音楽を愛し、最高の演奏者を育てることに憑かれ、自分の理想を何一つゆずらないフレッチャー。観ている方が針でさされるような狂気を放っている。正直、こんな先生に付いたら今の若者は1日と持たないんじゃないだろうか。

 

現代は「Whiplash(むち打ち症)」だが、ラストシーンはまさにニーマンとフレッチャーの「セッション」だった。珍しく邦題good jobと思った作品である。

地球から来た男 星新一

地球から来た男 (角川文庫)

地球から来た男 (角川文庫)

『住み心地はどうだい』

星新一ショートショート
さらりとした文章で、特異な人生に翻弄される男たちが描かれる。

表題作では、地球で罰を受け星外へ追放された男が描かれる。しかし、追放先は地球そっくりなもう1つの『地球』であった...
ごくごく普通の人でありながら、男はどうしようもない孤独を感じる。なにも問題はない。ただ、この『地球』は自分の故郷ではないのだ。誰とも分かち合うことのできない孤独。彼に救いはあるのだろうか。

その他、様々な形で運命に翻弄されある種の孤独を抱えた男たちが描かれる。特殊ででありながら何か親近感の湧く男たち。現実にも同じような孤独はまん延しているのかもしれない。